連載・日本人フィギュアスケーターの軌跡
第5回 織田信成 後編(全2回)
2026年2月のミラノ・コルティナ五輪を前に、21世紀の五輪(2002年ソルトレイクシティ大会~2022年北京大会)に出場した日本人フィギュアスケーターの活躍や苦悩を振り返る本連載。第5回は、波乱万丈を経て2010年バンクーバー五輪出場を果たした織田信成の軌跡を振り返る。
* * *
【ついに手にした五輪の代表】
シニアデビュー1年目でまだ経験の浅かったトリノ五輪出場への戦いとは違い、自ら勝ち取った五輪出場枠を自分のものにしようと臨んだバンクーバー五輪への戦い。2009−2010シーズンは、高橋大輔がケガから復帰したなか、織田信成は前半戦から好調を維持した。
GPシリーズ初戦のフランス杯は、フリーでは当日朝の不調を理由に4回転ジャンプを回避したがSP2位からの逆転優勝を果たす。
「ブライアン・ジュベール(フランス)やトマシュ・ベルネル(チェコ)との激しい戦いになるのではないかと緊張していましたが、試合が始まると自分の演技をすることしか方法はないと思って集中できました」
そう言って笑顔を見せた織田だが、4回転に挑戦できなかったことを悔いながら、「4回転+3回転+3回転という目標を掲げているので達成したい」と意欲を見せた。
その2週間後の中国杯ではエヴァン・ライサチェク(アメリカ)を破って優勝し、ポイントトップでGPファイナルに進出。ショートプログラム(SP)は、高橋とライサチェクに次ぐ3位発進となったが、1位と2.30点差の87.65点。「最終滑走で緊張しましたが、そのなかでも自分に集中して滑れたので自信がつきました」と納得の表情を見せた。
フリーでは後半のアクセルが2本ともシングルになるミスが出てライサチェクを捕らえきれなかったが、ミスを重ねて順位を落とした高橋を逆転して2位に。
その結果によって女子の安藤美姫とともにバンクーバー五輪代表に内定すると、織田は「世界で戦って勝つためには4回転は絶対に必要。練習ではできているのでもっと自信を持って挑みたいです」と話した。
【初の大舞台で演技中断のアクシデント...】
初挑戦の五輪。SPは10番滑走のエフゲニー・プルシェンコ(ロシア)が90.85点で暫定トップに立ち、17番滑走の高橋が90.25点で続く状況での演技だった。
織田は最初のトリプルアクセルを着実に決めたが、次の3回転ルッツ+3回転トーループはルッツのエッジ不明確と判定されてGOE(出来ばえ点)加点を稼げなかった。
「すごく緊張していたのであっという間に終わったけれど、大丈夫と言ってくれたコーチの言葉や、今まで練習してきたことを信じて滑りました。思った以上に五輪という舞台で力が出せたので、自分としては満足しています」
演技後にこう話した織田だが、最終グループでライサチェクが90.35点を出したためにSPは4位発進。表彰台へは、90点台で並んだ3位までに5点以上の差を開けられる厳しい展開になった。
2日後のフリーは、ライサチェクが4回転ジャンプを入れない構成をノーミスで滑り、合計を257.67点とし暫定トップに立ったあとの演技だった。
メダルを獲得するには、それまでの公認自己ベストの163.33点を大きく上回らなければいけなくなった状況。織田は「(フリーの)朝の調子を見て入れる意向」だと話していた冒頭の4回転トーループを3回転ルッツに替えて滑り出した。
だが、安定感を欠いた。次のトリプルアクセル+3回転トーループは降りたが、アクセルの着氷が乱れてGOEは0.84点の減点。後半に入って3本目のジャンプだった3回転フリップ+2回転トーループを降りたあとの3回転ループで転倒。そこで演技を中断し、靴ひもをしばり直すアクシデントに直面した。
結果は転倒の1点と演技中断の2点の減点で153.69点。
最終的にはプルシェンコが2位、高橋は3位とSP上位3選手がメダルを獲得したなか、織田は7位に順位を落とす結果だった。
ミックスゾーンで涙をボロボロと流し、「ショックすぎて言葉にならない。3回転フリップを跳んだ時に靴ひもが切れ、3回転ループでほどけてしまった。悔いが残る大会になりましたが、4回転に挑戦するだけの実力がなかった自分の責任。終わった瞬間は頭が真っ白だった」と話した。
【自由奔放に楽しんだスケート人生】
悔いが残った初めての五輪。その挽回を期した2010年3月の世界選手権は、高橋が優勝。織田はSPですべてのジャンプがシングルになるミスをして28位と、どん底に落ちる結果になった。
それでも4回転に挑戦し続けた2010−2011シーズンは、GPシリーズ2大会でともに2位になり、GPファイナルではSPで初めて4回転トーループ+3回転トーループに成功して2位に。全日本選手権も2位。そして2011年の世界選手権は、フリーでジャンプの回数違反を犯して6位だった。
2011−2012シーズンは、左ひざの故障でGPシリーズ2大会のみの出場に終わり、翌季もGPファイナル進出と世界選手権出場を逃した。
ソチ五輪シーズンの2013−2014シーズンは、初戦のネーベルホルン杯のSPとフリーで4回転トーループを成功させ、合計で262.98点の自己最高得点を出す。さらに、高橋が欠場し繰り上げ出場となったGPファイナルは3位に入って復活を印象づけたが、全日本選手権は優勝の羽生結弦が297.80点で、2位の町田樹が277.04点を出すハイレベルな戦いのなか4位にとどまり2回目の五輪出場を果たせず。翌日のメダリスト・オン・アイスで現役引退を表明した。
軽やかで力強い演技と国際大会の結果だけではなく、数々のアクシデントとの遭遇や大泣きするキャラクターで強烈な印象を残した織田信成。
だが彼のスケート人生はそれだけでは終わらなかった。2022年11月に10季ぶりに現役復帰。2023−2024シーズンは西日本選手権で優勝しながらも、日本アンチ・ドーピング機構への対応の不備で全日本に出場できず。それでも競技を続け、翌季も西日本優勝で出場権を獲得した全日本選手権では、SPで4回転トーループ+3回転トーループを成功させ、フリーでは4回転で転倒しながらも総合4位と、ファンを驚かせる滑りを見せた。
2度目の現役引退は37歳だった。織田は波乱万丈に、そして自由奔放にフィギュアスケートを楽しんでファンに話題を提供し続けた。
終わり
前編から読む
<プロフィール>
織田信成 おだ・のぶなり/1987年、大阪府生まれ。