【東京世界陸上】400m・中島佑気ジョセフの「賢く走る」&「...の画像はこちら >>

【100mごとに切り替えるポイントをつくる】

 今から34年前の1991年夏、東京世界陸上・男子400mで、高野進が日本短距離陣としては59年ぶりとなる世界大会での決勝進出を果たした(7位)。そこから日本の男子短距離勢は着実に力を伸ばすなか、400mだけは遅れを取っていた。

 だが、一昨年に佐藤拳太郎(富士通)が32年ぶりに日本記録を更新したのに続き、今度は中島佑気ジョセフ(富士通)がその厚い扉をこじ開ける、世界陸上6位入賞の快挙を達成した。

 一昨年の世界陸上ブダペスト大会は準決勝敗退、昨年のパリ五輪はケガの影響で予選敗退に終わった中島は、今大会では予選から驚きの走りを見せた。9月14日の予選2組、大歓声を背に、ラストで追い込んで44秒44の日本記録で組2位。あっさりと準決勝進出を決めたのだ。これは中島にとって想定内の結果だったという。

「外側のレーンに強い選手が固まっていたので、前半は彼らに離されすぎず、自分のリズムで焦らずにつき、後半は自分の強みを生かして、ラスト50mから勝負するというプランどおり(の結果)。自分がやれることをやれば、44秒台中盤は出るだろうと思っていました。今まで発揮できなかった力を、ブダペストやパリの失敗を生かして、ようやく100パーセント発揮することができたと思います」

 中島はまだ20歳だった2022年の世界陸上オレゴン大会で4×400mリレーに出場。当時から"後半型"を自認していた。しかし、アンカーとして走った決勝では4位でバトンを受け取り、そこからメダルを狙うも、得意のラストで突き放された。アジア記録こそ更新したものの、上位3チームを逆転できなかった。

 それからは「世界と戦うためには前半から行かなければダメ」と考えるようになり、45秒5台だった自己記録を、一昨年に45秒0台まで進化して安定させた。だが、そこからの壁はなかなか破れなかった。

 そんな状況を打破しようと拠点をアメリカに移した昨年は、ケガの影響もあり結果こそ出せなかったが、意識は確実に変わった。

「向こうのコーチの方針は、400mを賢く走るというもの。選手たちも記録を狙うために前半から飛ばすのではなく、スピードがあっても200mの通過はむしろ抑え、ラスト100mを11秒中盤で持ってくると話をしていました。前半は焦る必要はなく、100mごとに切り替えポイントをつくって、400mをまとめきるというのを練習で徹底されました」

 その頃までの中島は、後半が強いとはいっても、ラスト100mに12秒かかっていた。だが、世界のトップ選手は平気で11秒8を切ってくる。「それでは世界で戦えるはずはなかった」と、得意とする後半のさらなるレベルアップに努める必要性を感じた。

 それを実践しようとした今年は、4月にケガをしたことで出遅れ、初戦が7月の日本選手権になった。予選と決勝の2レースは、「前半行かなければいけないという固定観念が頭の中に残っていたのに加え、状態が悪いのでがんばって進もうという感じで、力が入っていた」という走りだった(決勝5位)。

 だが、8月3日の記録会では、世界陸上の参加標準記録(44秒85)を突破する、日本歴代3位の44秒84をたたき出した。ハムストリング痛で前日練習を途中でやめた状態ながらも、「数字や力感を追うのではなく、スーッと勝手に無意識で走っていく感覚」という走りができた。

【決勝のラスト100mはただひとりの11秒台】

 その後はじっくり練習を積みながら、今大会にピークを合わせることができた。予選は200m通過が組5番手、300mで4位に上げ、ラスト100mは11秒8を切って(11秒75)2位でゴール。

目指していたレース展開で結果を出した。

 予選で得た自信を裏付けにして臨んだ16日の準決勝。決勝へ進めるのは全3組の各組上位2名+2(各組3位以下のタイム順2名まで)と、厳しさが増す状況のなかでも中島の戦略は明確だった。

「準決勝になるとイチかバチかを狙って前半から突っ込んでくる選手がいるというのを想定し、そこに惑わされずに自分の感覚を信じて自分のスタイルに徹し、最後の100mから50mで勝負していこうと思いました」

 その戦略への追い風も吹いた。中島が走る3組の前の2組がハイレベルなレースになり、決勝進出となる+2の基準が一気に上がった。そのため3組を走る選手たちは、組2位以内だけではなく、記録も意識しなければいけない状況になった。

 そんななかで中島は冷静な走りに徹した。自分より持ちタイムが上の選手が6人もいるにも関わらず、200m通過は予選より抑え、トップから0秒99遅れで8番手の入り。そこから300mまでは「ここで離されるとラストが追い込みきれなくなる」という思いもあり、予選よりわずかに上げてトップとは0秒81差の7番手に。

 ラスト100mは11秒76で、想定通りに落ちてくる選手を抜いて、トップとは0秒32差の44秒53で2位になって決勝進出を果たした。

 1991年の高野進は、今とは異なる4ラウンド制(1次予選、2次予選、準決勝、決勝)のなか、準決勝(全2組で各組上位4名が決勝進出)で強い選手を分散させるためには、2次予選が最大の山場だと勝負をかけて組1位通過し、狙いどおりに決勝進出を果たした。それと同じように、中島は準決勝では自分を信じ、勇気を持って、前半はあえて8番手に控える戦略的な走りで決勝進出を勝ち取ったのだ。

 それから2日後の9月18日の決勝。「準決勝はピリピリしていて一番緊張すると思いましたが、決勝はここまで勝ち上がってきた選手たちが、お互いにリスペクトし合う雰囲気も感じました。もちろん、疲労はありましたが、決勝という神聖な舞台を前にして、体が疲労に抗う究極の状態になるようなものを感じました」と振り返る。

 決勝は大外の9レーン。予選、準決勝とは違い、前の選手との差を測れない難しさがあった。それでも中島は、準決勝後に「もう少し前半を上げてしっかりまとめるレースもしてみたい」と話していたように、攻めるレースをし、最初の100mは8番手だったが、予選や準決勝より速い11秒19で入った。

 100mから200mまでは「前半から飛ばしてくる、すぐ内側の2選手を意識して少し抑えてしまった」という展開になったが、200mから300mまでは予選と準決勝の11秒1台から10秒99に上げ、ラスト100mでは2選手をかわして6位に入った(44秒62)。

 中島はこの決勝のラスト100mをただひとり11秒台(11秒95)で走った。それでも詰めきれなかったことで、「決勝を走っていたうれしさが悔しさに変わった」と苦笑したが、高野の7位を上回る6位は、世界大会の日本男子短距離陣では、1932年のロサンゼルス五輪100mの吉岡隆徳に並ぶ快挙だ。

「高野先生は僕にとっては英雄だし、日本の400mを切り拓いてきた偉大な先人。でも、いつかは絶対に僕が超えなければいけないとつねに思ってきました。その高野先生の記録にやっと並ぶことができたのは感慨深いですが、400mをより活気のある種目にするために僕が一歩を踏み出せたということがうれしい」

 1991年当時の高野は30歳。

まだ23歳の中島には、これからさらなる道を切り拓く時間が十分に残されている。

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