前編:大谷翔平のフルスイングを可能にする現在のMLB球場環境
人々の記憶に刻み込まれる大谷翔平のフルスイング。今シーズン、史上6人目の2年連続50本塁打という勲章をまた一つ手にしたが、それを実現可能としているのは、本人のみならず、観戦者を打球から守る球場の安全ネットがあるからこそである。
ひと昔前まで、ネット裏の一部を除き、設けられていなかった安全防御ネットが全球場でなぜ設置されるようになったのか。
【一つひとつが記憶に刻まれる大谷翔平の弾丸打球】
大谷翔平が9月16日に今季50号に到達し、その後も本塁打を重ねている。昨季の54本を上回るペースで、2年連続の50本超えはベーブ・ルースやケン・グリフィーJr.らに並ぶ史上6人目の快挙となる。ナ・リーグ本塁打争いでもフィラデルフィア・フィリーズのカイル・シュワーバーと激しい争いを繰り広げている。しかし大谷は、あくまでチームの勝利を最優先にしており、個人記録について多くを語ることはない。
「そこは全然、何も感じていないですね。1打席でも多く、いいアットバット(打席)を重ねたいだけです。自分でコントロールできることを第一に考えて、1日1日を頑張りたいと思っています」と話す。50号到達についても「打てるということは、それだけチームの勝つ確率が高くなると思う。ホームランはもちろん、フォアボールをしっかり選ぶことも一番打者の大事な仕事のひとつ」と、あくまでチーム目線で捉えている。
また、シーズン終盤に入ってボールの見え方がよくなっているのかと問われると、「すごく調子がいい時期、というのがあまりなく、ここまで来ている感じ。逆に言えば、調子が悪い時にそれなりの打席を送れていたのだと思う。残りは少ないですが、ポストシーズンに向けてよい状態を合わせられれば最高なんじゃないかな」と語った。
こうして本人は冷静に言葉を選ぶが、その一振りが放つ衝撃は、野球ファンにとっては圧倒的な"見せ場"となっている。
これまでで最も飛距離の出た本塁打は、2023年6月30日(ロサンゼルス・エンゼルス時代)に放った493フィート弾(約150メートル)。一方で、最速の一打は今季9月2日のピッツバーグ・パイレーツ戦で放った時速120マイル(約192キロ)の弾丸ホームランだった。打球は快音を響かせ、わずか約3秒でスタンドに飛び込んでいる。
打たれた新人投手ババ・チャンドラーは、こう語った。
「ワオと思ったよ! どれくらい強い打球を打たれたのか確認したくて電光掲示板を見た。翔平は史上最強のひとりだ。ホームランを打たれても愚痴なんて言えないよ」
データサイト『ベースボール・サバント』によれば、大谷は今季すでに約1200回のスイングを記録している。その一つひとつのフルスイングが、対戦相手、チームメイト、そして野球ファンの心に鮮烈なドラマを刻み込んでいるのだ。
【転機となったヤンキースタジアムの事故】
ところで、大谷のフルスイングを見てつくづく思うのは、まさに絶好のタイミングでメジャーに来てくれたということだ。もし昔だったら、今のように思いきりバットを振ることはできなかったかもしれない。
8月4日のセントルイス・カージナルス戦3回、大谷はカウント1-1から内角低め87マイル(約139キロ)のチェンジアップを強振。
テレビ中継では、その瞬間がアップで映し出された。大谷は打球の行方をしっかりと目で追い、トーレスさんに当たった瞬間に痛そうに顔をしかめていた。実際、その回が終わると、クリス・ウッドワード一塁ベースコーチがベンチに戻るのを待っていて、「警備員の人は大丈夫でしたか?」と声をかけたという。コーチは「大丈夫、肩に当たっただけで平気だったよ」と答えたそうだ。こうした気遣いはこの時だけではない。大谷が自分の打球で誰かをケガさせていないか、常に気にかけている様子を、これまでにも何度か目にしてきた。
MLBの球場は日本とは異なり、かつてはフィールドと内野スタンドを隔てるネットはごく限定的だった。ホームプレート後方には巨大なバックネットが設置されていたが、一塁側・三塁側のダグアウト付近やファウルゾーンの観客席はフィールドとの距離が非常に近いにもかかわらず、ネットはなく、ファウルボールや折れたバットが観客席に飛び込みやすい状況だった。
MLBは長らく「観客はファウルボールに注意すべき(the assumption of risk)」との立場を取り、ネット拡張には消極的だった。しかし打球速度は年々上がり、危険度も高まり事故が増加。2015年12月、MLBは初めて公式に「少なくともホームプレートからダグアウトの端まではネットを設置するよう」各球団に推奨した。
それでも2017年9月、ヤンキースタジアムで衝撃的な事故が起きる。トッド・フレイジャーが放った時速105マイル(168キロ)のライナーが、三塁側の前から5列目に座っていた2歳の少女の顔を直撃し、近隣の医療センターに搬送されたのだ。当時のヤンキースタジアムでは防護ネットがダグアウトの手前、ホームプレート寄りで途切れていた。
試合後、フレイジャーは涙ながらに語った。
「自分にも幼い娘がいる。最悪だ。彼女が無事であることを願っている。こんなことは絶対に起きてほしくなかった。本当に辛い」
その晩、ロブ・マンフレッドコミッショナーは「球界全体で議論が続いている。2年前にガイドラインを出したが、その後は各球団が自分たちの球場に合わせて、どこまでネットを伸ばすべきか検討している」と説明した。しかし翌日には「今回の事故を受け、ネット拡張推進の取り組みを倍増させる」と強い口調で方針転換を表明している。
こうして大谷がメジャー1年目を迎えた2018年シーズンから、すべての球団がダグアウトの背後まで防護ネットを拡張した。
2019年5月、シカゴ・カブスのアルバート・アルモラJr.がヒューストン・アストロズ戦で放った打球が、ダグアウトより先の内野スタンドに飛び込み、少女を直撃。頭蓋骨骨折という重傷を負わせる事故となった。この衝撃的な事件を受け、シカゴ・ホワイトソックスやワシントン・ナショナルズがいち早く外野のポール際までネットを拡張。その後、2020年シーズンまでにほぼすべての球場で、ポール付近まで防護ネットが設置された。
ドジャースタジアムもダグアウトから約38メートルにわたりネットを延長した。そこから先はスタンドが外側に広がる構造のため、ライナー性の打球が観客席に飛び込みにくい設計になっている。しかし、大谷の強烈なラインドライブは鋭くフックし、ネットの先にあるスタンドへ。そこで警備員のトーレスさんの右肩を直撃したのだ。試合翌日、筆者がトーレスさんに話を聞くと、彼は「大丈夫だよ」と照れくさそうに笑っていた。
つづく