ベテランプレーヤーの矜持
~彼らが「現役」にこだわるワケ(2025年版)
第7回:鈴木大輔(ジェフユナイテッド千葉)/前編
「自分の履歴書みたいなものがあったとしたら、世代別の日本代表にコンスタントに名を連ねてきたとか、2012年にロンドン五輪に出場したとか。2013年から在籍した柏レイソルではタイトルを経験できたとか。日本代表にも選出されて海外移籍も経験したとか、キャプテンを預かることも多かったとか。
一見、華やかな経歴に見えると思うんですけど、自分ではそれが結構、違和感なんです。高校時代も自分が一番秀でていたわけじゃなかったし、世代別の日本代表にもいつもギリギリ入れた感じでした。キャプテンも『なんか明るいからやらせておこう』みたいな感じで任されることが多かった気がします(笑)。
ただ、その時々で自分が輝くこと以上に、周りの選手が輝くことに喜びを覚えながらプレーを続けていたら、うまくキャリアがつながって今にたどり着いた。僕自身は昔も今も変わらず、学生の頃のような『青春ど真ん中!』的なノリを更新しているだけなんですけど」
清々しいほどまっすぐに、サッカーができる喜びを口にする。どんな時も後ろは振り向かない。日々、自分にできることを全力でやり切って、前だけを見据えて突き進む。
「チームみんなでひとつになって、目標に向かう」
簡単なようで、プロの世界では難しくもあるその実現の先に、"最高の瞬間"が待っていると信じて。
◆ ◆ ◆
今シーズンのJ2リーグでは、第30節を終えた時点で16勝6分8敗の3位。開幕6連勝でのスタートを追い風にして、千葉がJ1昇格争いの先頭集団を走り続けている。小林慶行監督のもと、一昨年は昇格プレーオフ準決勝で敗れ、昨年は最終節で昇格プレーオフ進出を逃すという屈辱にまみれたが、"小林ジェフ"としてのチームづくりも3年目に突入し、いよいよ機が熟した印象も強い。
そんな千葉の先頭に立つのが、在籍5年目のキャプテン、鈴木大輔だ。
「年々、チームの雰囲気もよくなっているなかで、そこに結果も伴うようになってきた。ただ、どんな時も常に『目の前の1試合だ』と思ってやってきたので。チームのほとんどの選手がタイトルなど、何かを成し遂げた経験があるわけじゃないと考えても、今後も先を見ずに目の前の1試合を積み重ねていくだけだと思っています」
アキレス腱断裂から復帰した今シーズンは、開幕戦からメンバー入りを果たし22試合のピッチに立ってきた。
「アキレス腱を切った時は引退もよぎりました。同じケガをしたことのある選手に連絡を取って話を聞いても、本来の体に戻るには最低でも1年はかかると聞いていたし、復帰できたとしても、自分が納得のいく状態に持っていけるのかも不安でした。でも、結果的にリハビリもスムーズに進んで、わりと早く戦列に戻れたし、試合に出たことで戻ってきた感覚もたくさんあって、それをまた自信にしながら"戦える自分"を取り戻せた気がしています」
7月半ば以降は、鳥海晃司や河野貴志らとのポジション争いのなかで控えメンバーに回る試合も多かったが、その状況に揺り動かされることもなく、その胸に宿る"自信"にも揺らぎはない。むしろ、その競争を楽しんでいるようにすら見える。
「2021年に千葉に加入して、このステージに身を置いて気づいたんですけど、J1に昇格するチームはどこも、2チーム作れるくらいの選手層に厚みがあるというか。
そこを基準に考えると、35歳という年齢の僕が『全試合出場しました』というのは、チームにとっては決して誇らしいことではないと思うんです。もちろん、僕自身はそこを目指しているんですよ。そのために日々、最大限を注いでもいます。でも現実問題、全試合でベストコンディションをキープし続けるのは不可能というか。
どの選手にも言えることですけど、試合に出続けていたら当然疲労も出るし、時に理想どおりに体が動かないこともある。そういった時に、ポジションを取って代わる選手がいかに結果を残せるか。その準備をしているか。それによってチーム力を落とさずに戦えるかが長いリーグ戦では特に大事になってくる。
なので、自分が試合に出ていない状況をネガティブに考えることはいっさいないです。実際、(河野)貴志だって、僕が前半戦、試合に出ていた時期に虎視眈々と準備をしていたから今の彼がいるわけで、そう考えても本当にいいチームになってきたと思っています」
それが心からの言葉であることは、仲間の証言からも明らかだ。チーム最年長で、千葉在籍はトータルで14年目を数える米倉恒貴は、鈴木のキャプテンシーへの絶大な信頼を言葉に変える。
「(鈴木)大輔はどんな時も、前向きな発言しかしないし、話す言葉にも熱があって、チームや仲間への思いも深くて、自然とみんなが引き寄せられていく。どんな状況に置かれても、同じテンションでチームのために頑張り続けることができる、みんなのお手本。キャプテン中のキャプテンです」
では何が一体、鈴木をそこまでまっすぐにサッカーに向かわせるのか。チームや仲間を思いやれるのだろうか。間髪入れずに「それが青春だからです!」と返ってきた。
「僕は何より、試合に勝ったあとにみんなで喜ぶのが、とにかくめっちゃ好きなんです(笑)。高校時代に『選手権に出て、優勝するぞ!』って目指していたあの感じ? 仲間と一緒に『青春ど真ん中!』的なノリを、今も毎年、更新し続けています。
だって、その時々の目標に向かってみんなで本気で取り組んで、ポジション争いだとかいろんな競争に立ち向かって、シーズンが終わったらみんなで飯を食って、酒を呑み『うわぁー、今年も絆が深まったなー!』で終わるって、最高じゃないですか! ってか、僕はその瞬間が一番好きでサッカーをやっている。
もちろんある意味、"個人事業主"が集まるプロの世界においては、ことさらそれが難しいのは僕もわかっています。それでもやっぱり、みんなで戦い、みんなで目標に向かい、みんなで達成して喜びたい。いつもそう思っています」
しかも、幼少期からそのマインドを持ち続けているというから驚きだ。家族といても、学校のクラスのなかでも「誰かが(輪から)こぼれるのが嫌」で、いつもその"架け橋"的な役割を買って出る子どもだった。
「兄が結構ヤンチャだったのもあって、子どもの頃からなんとなく『自分が兄と同じことをしていたら家族がうまくいかなくなる』みたいな空気を感じ取っていた気がします。だから、兄と親が少しギスギスしていたら、子どもながら間を取り持つような立ち回りをすることも多かったです。
学校でも、つまらなさそうにしている友だちがいたら、その子のところに行ってみんなの輪に入れるようにコミュニケーションを取っていました。それによって、クラス全体が、家族が、チーム全員が仲よくなって『やっぱ、これが最高だよね!』みたいな。
とにかく、家族もクラスも、その輪にいる誰かが不満を抱えている姿を見たくなかったんだと思います。それが大人になった今も続いているので、もはや生まれ持っての性格ですね」
もっともチームづくりにおいて、それがすべてだと思っているわけではない。結果を導き出すためには、チームが目指す方向性や戦術に一貫性が必要だと思っているし、裏を返せば「それをなくして勝ち抜けるほど甘い世界でもない」とも言う。
監督、スタッフと、選手との信頼関係がチームづくりを左右することも百も承知だ。それでも、ギリギリの戦いを勝ちに転じる最後のひと押しになるのは、今の千葉で言うところの、J1昇格争いというデッドヒートを勝ち抜くための、最後のピースは「まとまったもん勝ち」だと語気を強める。
「どんなにいい戦術があって、どんなにいい選手がいても、ひとりでは戦えないのがサッカーなので。さっき話した選手層にもつながる話ですけど、長いシーズンを勝ち抜くには、必ず最後はチームワークがものをいう。
だからこそ、出ている選手、出ていない選手に関係なく、全員が目の前の試合に対して、常に当事者意識を持てるチームになりたい。
取材冒頭から熱のこもった言葉が続いたが、そんな彼のパーソナリティを知りたくて、キャリアを遡って尋ねてみる。2008年に新潟でプロキャリアをスタートして、18年目。「こんなに長く続いているとは思わなかった」と振り返るキャリアがなぜ今も続いているのかを含めて、だ。
鈴木によれば、最初のターニングポイントは「試合にまったく絡めなかった新潟でのプロ1~3年目」にあるという。
「星稜高校在学中の2007年から新潟の特別指定選手に登録されていたのもあって、試合に出られるもんだと思って加入したら、もう全然ダメで。先輩選手との実力の差は明らかだったし、パフォーマンスがプロのレベルに及んでいないことも自覚していました。
でも、その時になんとか自分を変えたい、変えなきゃ話にならないと思って黙々と自分と向き合ったんです。とにかく練習しかないと、自主トレもしまくったし、知識がないながらもひたすら筋トレにも取り組んだ。これは、そもそもの『愚痴を言う暇があったら体を動かそう!』って性格が幸いしたのかもしれません」
実際、当時のチームメイトで、鈴木の1年後、2009年に新潟でプロキャリアをスタートし、寮生活もともにした東口順昭(ガンバ大阪)が当時の鈴木の姿に想いを馳せる。
「とにかく、めちゃめちゃ芯が通っているというのかな。試合に出ても出られなくても、思うようにいかないことがあっても、決してネガティブなことは言わず、ひたすら練習していたし、なんなら寮で夜ご飯を食べたあとも必ずジムで筋トレをしていました。
先輩、後輩の分け隔てなく誰とでも話ができて、責任感もあって、人間的にも信頼できた。
鈴木によれば、その"コミュニケーション力"も試合に出られない時間を通してコーチングスタッフや先輩選手と積極的に言葉を交わすことで育まれたのだという。
「高校を卒業したばかりで、目に入るもの、出会う人がすべて新鮮に思える時期に、大袈裟な言い方ながら"人格を上げていく"ための時間をたくさん過ごすことができた。今でも、その時のいろんな人との出会いや言葉は自分にとって大きな財産です」
そのひとりが、当時新潟で指導していた黒崎久志コーチだ。黒崎コーチに繰り返し言われた「ひとつ武器を作れ」というアドバイスは、キャリアの突破口にもなった。
「僕は学生時代からヘディングを得意としていたのもあって、黒崎さんにはいつも『ヘディングをしっかり磨いて得点を取れるようになれ』『勝負どころで違いを見せられる選手になるんだ』と言ってもらっていました。その言葉を信じて、居残り練習でも黒崎さんにひたすらボールを蹴ってもらってヘディングの練習をしたし、競り勝つ方法やヘディングのコツみたいなところを教わって、磨きまくっていました。
といっても、最初の2年間はほとんど試合には絡めなかったんですけど。でも2010年に、その黒崎さんが新潟の監督に就任されたのを機に初めてメンバー入りができ、2011年以降は先発で使ってもらえるようになった。"ヘディング"という武器を持てたこともすごく自信になりました。
ただ......よくよく考えると、プロの世界にはヘディングが強いセンターバックなんてウジャウジャいますからね。厳密には、プロのレベルで戦えるくらいのレベルに持っていけたという程度だったんじゃないかな(笑)。
そう思うと、その時に本当に身につけた武器って"ヘディング"以上に、どんな時も腐らず、不貞腐れず、精一杯でやり続けるメンタリティだったのかもしれない。それがあったから、黒崎さんにも使ってもらえたはずだし、以降のキャリアでもうまくいかない時にどうするのか、という答えがいつも自分の軸に備わっていた。
そして、そのうまくいかない時や自分が底にある状態の時に、開き直って前に進もうとするメンタリティが......僕はそれをこの世界を生き抜くすごく大事な武器だと考えているんですけど、それがあるから今もキャリアが続いているのかもしれない」
実際、そうして過ごした"最初のターニングポイント"を足がかりに、鈴木は一気にキャリアを駆け上っていく。2011年以降は新潟でもレギュラーに定着すると、2012年にはロンドン五輪を戦うU-23日本代表にも選出。6試合に先発出場して4位にたどり着いたことはもちろん、オーバーエイジ枠で選出された吉田麻也とセンターバックでコンビを組んだ経験は、のちにつながる"海外"への思いを加速させた。
「当時の日本人センターバックで、海外でプレーしている選手は(吉田)麻也くんくらいでしたから。その基準を肌で知れたのもよかったし、ひたすら『絶対に海外に行け。日本人センターバックの価値を上げていかないと、日本はこの先強くなれないぞ』みたいな話をしてもらったのも刺激でしかなかったです。
以前から僕はUEFAチャンピオンズリーグへの出場を目標にしていたんですけど、正直、そこへの道筋はあまり描いていなかったんです。でもロンドン五輪を経験して、自分のなかではっきりと『できるだけ早く、海外に行く』と決めました」
(つづく)◆35歳・鈴木大輔が振り返るサッカー人生のターニングポイント>>
鈴木大輔(すずき・だいすけ)
1990年1月29日生まれ。東京都出身。星稜高卒業後、2008年にアルビレックス新潟入り。プロ入り4年目にレギュラー定着を果たし、2012年にはU-23日本代表に選出されてロンドン五輪に出場。4強入りに貢献した。2013年、柏レイソルに完全移籍。2016年にはスペイン2部のヒムナスティック・タラゴナに移籍した。2018年に柏へ復帰し、2019年に浦和レッズへ完全移籍。その後、2021年からジェフユナイテッド千葉でプレー。チームのJ1昇格へ日々奮闘している。