ベテランプレーヤーの矜持
~彼らが「現役」にこだわるワケ(2025年版)
第7回:鈴木大輔(ジェフユナイテッド千葉)/後編
前編◆「キャプテン中のキャプテン」ジェフ千葉・鈴木大輔の流儀>>
2012年のロンドン五輪への出場によって「海外に行く」という決意が固まったことで、意識や考え方の基準が変わったのもあってだろう。2013年、鈴木大輔は5年間在籍したアルビレックス新潟を離れ、柏レイソルへの移籍を決断する。
「新潟ではスタメンに定着して以降、多少調子を落としても試合に出られるような環境にあったので。その自分を冷静に見た時に、新潟を離れないと成長できないと考えました。いくつかのオファーから柏に決めたのは、キャリアやチームを決める時に自分に選択権があるのなら、『絶対に厳しいほうを選ぶ』と決めていたから。
それもあって、『即戦力として考えている』と声を掛けてもらったチームではなく、あえて、J1復帰初年度の2011年にJ1を制したばかりのチームで、強化の方に『増嶋竜也と近藤直也という盤石のセンターバックコンビに割って入る勝負をしてほしい』と言われた柏を選択しました。そういう"競争"に身を置くことでしか見出せない成長があると思っていました」
事実、その柏で3シーズンにわたって厳しいセンターバック争いを続けた時間は、鈴木にとって「いろんな景色を見る時間」になったという。特にネルシーニョ監督のもとで戦った最初の2シーズンは「試合で結果を残せなければ、次の試合ではすぐにサブに回る」といった状況が続いたが、だからこそ、2013年のナビスコカップ(現ルヴァンカップ)で頂点に立ったり、2014年のリーグ戦で上位争いを繰り広げたりした経験は、鈴木の成長を促し、欲を膨らませた。
「ネルシーニョはDFラインに4枚、センターバックをそろえるというような戦術も敷く監督で、右サイドバックを任されることもありました。すべての試合には出られたわけじゃなかったけど、毎週、スタメンを目指して練習に食らいついていく、みたいな日々を過ごせたことは本当によかった。それが、2013年の日本代表選出にもつながったと思っています」
そしてその時間は、念願の"海外"を切り拓くことになる。思わぬアクシデントにも直面し、2016年1月に柏から退団のリリースが出された際には所属チームも決まっていない状況だったが、最終的には2016年2月にスペイン2部のヒムナスティック・タラゴナへの完全移籍が発表された。
「2015年の夏にラ・リーガのラージョ・バジェカーノからオファーをもらったのですが、違約金を設定していなかったため、いったん話が流れたんです。
でも僕自身の"海外"への思いは揺るがず、代理人にも『練習参加でもいいし、2部でもいいから、興味を持ってくれるチームを探してほしい』と伝えていたら、タラゴナから1週間の練習参加のオファーをもらった、と。あくまで練習参加なので決まらない可能性もあったんですけど、すぐに海を渡りました」
これは、バジェカーノとの移籍交渉が破談になる前後の時間を通して、人生を見つめ直したなかでの決断でもあったという。自身の年齢やサッカー選手としての目標、人生の目的。そして、「自分はなぜサッカーをしているのか」。思いを巡らせるなかで浮かんできた答えが、鈴木を突き動かした。
「所属チームがない状態の時に、引退でもするのかってくらい、人生を考えたんです。その時に思ったのが、まず僕の人生はほとんどサッカーで構成されてきて、サッカーのおかげで成長できてきたということでした。
でも一方で、『じゃあ、サッカーをやめたらどうなんだ?』ってことを考えた時に、"人として"成長し続けることができないと、きっと自分の人生はうまくいかないという考えに行き着いたんです。それを潜在的にわかっていたから、これまでも常に厳しい選択をしてきたのかもな、と。
じゃあ"人として成長し続ける"ために、今自分がするべき選択は何かを考えたら、やっぱり海外だ、と。
ですから、代理人に移籍先を探してもらうにあたっても、『お湯を出そうとしてもずっと水しか出てこないような国でも全然平気です』みたいな話もしていました (笑)。もちろん、自分の根本にあるサッカー選手としての軸、目標は最初にも話したUEFAチャンピオンズリーグに出場することに他ならなかったけど」
結果的に、練習参加を経て加入が決まったタラゴナで過ごした3シーズンは「間違いなく、第2のターニングポイントと言いきれる」ほど、濃密な時間になった。スペイン語はおろか、英語もままならないながらも通訳をつけずに過ごし、サッカーはもちろん、生活面もイチから組み立てていく環境は、鈴木に「生きる力」を備えさせ、2枠の外国籍選手の出場枠をつかむための戦いも、新たなサッカー観を植えつけることにつながった。
「僕のことなんて誰も知らないし、言葉も通じないから深い話もできないというなかで、まずはひとりの人間として認めてもらわなければいけないわけですから。その高いハードルを乗り越えようと毎日、必死に戦い続けました。結果的に、根が明るい性格にも助けられて、明るさと笑顔で乗りきることも多かったけど(笑)、タラゴナでの時間があったから、自分がどれだけ恵まれた環境でサッカーをしてきたのかも思い知った。
正直、スペイン2部のクラブとなれば、環境面も含めて決して恵まれているわけではなかったですけど、何も整っていないから気づけることもたくさんあって、毎日"生きている感"にあふれていました。
また、サッカーでも......それこそ、近年は日本でも立ち位置がどうとか、相手を見てサッカーをするような戦術も増えましたけど、それをもう何十年も前からやっていたのがスペインだったので。スペインはいつの時代も『バルセロナにどう勝つか』からの逆算で守備戦術が発展していく国なんですけど、それは2部も同じで、常に最新の守備戦術に触れながらプレーできた経験はすごく大きな財産にもなった」
かつ、チームに必要とされ、試合出場を重ねられた経験も、鈴木にとっては自信につながる出来事だったという。だが一方で、ラ・リーガへのステップアップを視野に入れてクラブからの契約延長の話を断った途端にメンバー外となり、約半年間試合に出られなくなるという苦い経験も味わった。
「タラゴナでのプレーや評価を冷静に分析した時に、試合には出ていたとはいえ、その自分では『違約金を払ってまでラ・リーガのクラブが獲得してくれることはないんじゃないか』と考えていたので。
ただ、タラゴナにしてみれば(チームに)残る気がない選手は使わない、それなら来シーズンもタラゴナとの契約がある選手を使う、と。クラブと関係性が悪くなるとか、嫌な態度を取られるようなことはまったくなかったんですけど、契約社会なので、そこはドライに判断されたんだと思います。それで、残りの半年は自分を磨く時間に使おうと切り替えました」
だが、結果的にタラゴナでの契約満了後、約3カ月間の時間をかけて移籍先を模索したものの、ラ・リーガを含めてキャリアアップを図れるようなヨーロッパの主要リーグからのオファーはなく、鈴木は2018年9月、残留争いの真っ只中にあった柏への復帰を決断する。
「28歳になったセンターバックの自分に、海外でのどんな可能性があるのかを見たかったのもあって、ヨーロッパの移籍ウインドウが閉まるギリギリまでラ・リーガを中心に移籍先を模索したんです。でも、どこからもオファーはなく、そこで初めて日本への復帰を考えました。
いくつか手を挙げてくれたJ1クラブのなかから柏を選んだのは、真っ先に正式なオファーをくれたから。また自分の現在地が明らかになったなかで、もう一度成長を求めるために必要な環境はどこかを考えて、柏を選びました」
当時の柏はリーグワースト4位の失点数を数えて、18チーム中15位に低迷していた時代。そのチームに身を置き「少しでも勝つ確率を上げるために自分には何ができるのか」を模索することを新たなチャレンジだと捉えた。
だが加入後、すべてのJ1リーグに出場しながら目標は達成できず、最終節を前に柏のJ2降格が決定してしまう。それを受けて、鈴木は2019年から浦和レッズに新たな活躍の場を求めると、2021年にはいよいよ、キャリアで3つ目のターニングポイントだと振り返る、ジェフユナイテッド千葉への移籍を決める。
当時、30歳。
「浦和に行くと決めたのは2013年の柏移籍と同様に、阿部勇樹さんをはじめ、槙野智章さん、マウリシオ、岩波拓也(現ヴィッセル神戸)、森脇良太さんら潤沢なセンターバック陣との競争を自分に求めたから。実際、クラブからはAFCチャンピオンズリーグ(ACL)の戦いを控えていたこともあり、『ACLを想定してセンターバックを2セット作りたいから、その競争に加わってほしい』と言われていました。ただ、結果的にヘルニアになったり、ケガが多かったことを含め、コンスタントに試合に出る自分を見出せなかったのは、僕の力不足だったと思っています。
その自分を冷静に受け止めたうえで、また、自身も30代に突入した頃からキャリアを広角で考えるようになっていたなかで、それまで培ってきた経験を若い選手に伝えたり、自分がリーダーシップを取ってチームを引き上げるチャレンジをできるチームはどこかを考えた時に、千葉がすごくリンクしました。新潟時代に、スカウトと選手という立場でお世話になったGMの鈴木健仁さんの『なんとしてでも千葉をJ1に復帰させたい』という熱意や、そのためのチームづくりの考え方に触れて、自分もその一員としてジェフに新たな歴史を作りたいという思いが強くなった」
そんな千葉でのプレーも、今年で5年目を迎えた。在籍初年度からキャプテンを預かるなかで、これまで在籍したクラブと同様、「まずは自分がクラブのことを知り、好きになり、自分という存在を認めてもらう」ことから始まったチャレンジは、千葉への愛着を深めながら現在も進行中だ。
前編でも触れたとおり、今シーズンは在籍した5シーズンのなかでも、もっとも長く"J1昇格"に近い順位での戦いを続けられているが、慢心は少しも感じられない。ただ、ひたすらに仲間とJ1昇格に向かって突き進んでいる。
「最後までみんなで目標に向かい、みんなで達成して、喜びたい」
おそらく、それは"キャプテン"としてというより、"ジェフ千葉"という輪を構成するひとりとしての思いだと捉えるべきだろう。いつの日か迫りくる"引退"への考え方に触れても、それがしっくりくる。
「最初に、今も『選手権に出て、優勝するぞ!』みたいな、仲間と『青春ど真ん中!』的なノリを、毎年更新しているだけだって話をしましたけど、ある意味それは、僕の人生のテーマでもあるんです。
正直この歳になれば、毎年のように『今年が最後だ』と思ってピッチに立っています。でも、少なからず今はサッカー選手として青春を味わいたいという思いが自分のなかの最上位にあるというか。ジェフの一員として、このクラブに関わるみんなとうれしい瞬間、悔しい瞬間を味わうことが何よりも今、僕が人生で"生きている"ことを実感する瞬間だと考えても、とにかく今シーズンも最後まで、チームの輪のなかで戦い続けたい。
そのうえで、最後はみんなでJ1昇格を喜べたら最高だと思っています」
35歳の今も、"人生"を注いだ熱き戦いは、まさに青春ど真ん中。常に最高沸点で更新を続けている。
(おわり)
鈴木大輔(すずき・だいすけ)
1990年1月29日生まれ。東京都出身。星稜高卒業後、2008年にアルビレックス新潟入り。プロ入り4年目にレギュラー定着を果たし、2012年にはU-23日本代表に選出されてロンドン五輪に出場。4強入りに貢献した。2013年、柏レイソルに完全移籍。