語り継がれる日本ラグビーの「レガシー」たち
【第29回】ホラニ龍コリニアシ
(埼工大深谷高→埼玉工業大→パナソニック)
ラグビーの魅力に一度でもハマると、もう抜け出せない。憧れたラガーマンのプレーは、ずっと鮮明に覚えている。
連載29回目は、日本ラグビーの歴史と深い関係にあるトンガ出身選手として歴代トップの45キャップを重ねたNo.8ホラニ龍コリニアシを紹介したい。ホラニはトンガでラグビーの才能を見出されたのではない。日本に来てからラグビーをはじめ、桜のジャージーへと駆け上がった希有な選手だった。
※ポジションの略称=HO(フッカー)、PR(プロップ)、LO(ロック)、FL(フランカー)、No.8(ナンバーエイト)、SH(スクラムハーフ)、SO(スタンドオフ)、CTB(センター)、WTB(ウイング)、FB(フルバック)
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ホラニ龍コリニアシのプレーで最初に衝撃を受けたのは、彼が高校2年生の時。花園の舞台だった。東海大仰星(現・東海大大阪仰星)が初優勝した1999年度大会。その決勝の舞台で対峙したのが、トンガ人留学生ふたりのパワーで勝ち上がってきた埼工大深谷(現・正智深谷)だった。
もっとも、ボールキャリーなどで目立っていたのは、No.8のマナセ・フォラウ(現・フォラウ愛世)のほう。細身なLOのコリニアシ・ホラニはマナセの陰に隠れた存在で、ラインアウトやタックルで堅実なプレーをしていた印象が強かった。
なぜ当時は細身だったかというと、トンガで生まれ育ったホラニは16歳で日本に留学してからラグビーを始めたからだ。つまり、ラグビー歴2年に満たないなかで強豪校の中核を担っていた。
ホラニの伯父は、元日本代表WTBのノフォムリ・タウモエフォラウ。1980年にトンガからそろばん留学生として来日し、大東文化大や三洋電機(現・埼玉パナソニックワイルドナイツ)で活躍した元選手だ。1987年の第1回ラグビーワールドカップでは外国出身者として初めて桜のジャージーをまとい、記念すべきチーム初トライを挙げた人物でもある。
【左腕には「大和魂」の入れ墨】
そんな名ラガーマンが親戚にいながら、ホラニは楕円球と無縁の生活を送っていた。中学時代は運動部ですらなく、吹奏楽部でトロンボーンを吹いていたという。
しかし高校1年で来日した時、伯父の勧めもあってラグビーを始めた。当時は「日本語もわからなかった」状態でラグビーに取り組んだ。日本語は愛読書『週刊少年ジャンプ』で学んだという。
高校卒業後は埼玉工業大に進学。在学中に新設された情報工学部に興味を持って転部したため、大学に5年通って卒業した。そして2006年、伯父も在籍した三洋電機に入社。高校時代に細身だったホラニは、来日8年で110kgを超える見事な体躯にまで成長した。
2007年には日本国籍を取得。コリニアシ・ホラニから「ホラニ龍コリニアシ」になった。『龍』の文字は2009年に他界した母『LIU』の読み方にちなんだという。
また、トンガでは家系の由来などを入れ墨で彫るのが伝統だが、ホラニは左の腕に「大和魂」という文字を彫った。日本愛は誰よりも強い。
「日本ではいい仲間、いいコーチたちに恵まれました。日本でラグビーを始めたので、自然の流れで日本国籍を選びました」
日本国籍を取得したホラニは、ワイルドナイツが強くなる時期と重なったこともあり、2007年度から日本選手権3連覇、2010年度のトップリーグ初制覇など数々のタイトル奪取に貢献。No.8として2007年度、2008年度、2010年度と3度トップリーグの「ベスト15」に輝いている。
フィジカルに秀でて、タックルは献身的で、ボールキャリーも強い──。3拍子の揃ったホラニを日本代表の指揮官ジョン・カーワンHC(ヘッドコーチ)がほっておくはずはなかった。2008年のカザフスタン代表戦で初キャップを獲得し、その後は日本代表に定着。2011年にニュージーランドで開催されたワールドカップのメンバーに選ばれた。
「留学生を代表して、世界で戦える姿を見せたい」
初めてのワールドカップを前に、ホラニは気合いを入れて臨んだ。しかし、No.8で先発した初戦のフランス戦で、まさかの右ひざのじん帯を負傷。憧れの舞台は、たった20分の出場で終わった。
【名将エディーに説得されて決意】
「2011年大会は落ち込む以外、何もなかった......。4年間がんばってきて、初戦の前半でケガをして終わってしまい、何も考えられなかった。(同じ予選プールだった)ニュージーランド代表とも(母国の)トンガ代表とも戦えなくて残念でした」
ホラニは失意のまま帰国する。復帰に向けてリハビリを始めるも、「ケガもしたし、年齢(30歳)も年齢だし、ヘッドコーチも変わる。もう日本代表はない」と思っていた。
しかし、ジャパンの新指揮官となったエディー・ジョーンズHCは、リハビリ中のホラニに何度もコンタクトを取ってきたという。「次のワールドカップまでが、貴方のラグビーキャリアのなかで一番いい人生になる」。名将エディーにそう説得され、心が動いた。
チームメイトからも「戻ってこい」と励まされたホラニは、「もしかして、まだ必要とされているのかな。もう1回、ワールドカップに出場するチャンスがあるのかな」と思うようになり、2012年の秋に代表復帰を果たした。
「エディージャパンの練習は、毎回、死にかけます(笑)」
必死でトレーニングを重ねたホラニは、エディージャパンでもキャップを積み上げていった。そして2015年、33歳で2度目のワールドカップメンバーに選ばれる。
ディフェンスリーダーの役目を担うホラニは、「前回出場したときよりチーム力が伸びた」と自信を持って挑んだ。のちに「ブライトンの奇跡」と呼ばれる南アフリカ戦や、スコットランド戦には出場できなかったものの、3戦目のサモア戦、4戦目のアメリカ戦では8番を背負って先発出場し、ともにチームの勝利に貢献した。
日本は予選プールで3勝を挙げながらも、勝ち点差で決勝トーナメント進出を逃した。ただ、これはワールドカップ史上初めてのことだけに、ホラニは「2019年大会につなげることができた」と、前回と違って充実した心境でワールドカップをあとにした。
【日本とトンガの交流をサポート】
その後、2018-2019シーズンを終え37歳となったホラニは、13年間在籍し続けたワイルドナイツひと筋でブーツを脱いだ。現役引退後はロビー・ディーンズ監督の下でアシスタントコーチに就き、2021年度のトップリーグ、2022年にリーグワン初年度の連覇に寄与した。
「日本でラグビーを始めたので、恩返しできればと思います。(トンガの出身の後輩選手に対しては)日本とトンガの関係を絶たないようにがんばってほしい。そして、日本代表にもトンガ代表にもなってほしい」
優しい性格として知られる愛称「コリーさん」は、ワイルドナイツの若い選手たちにも慕われる存在だ。12月に開幕する2025-26シーズンは、新たに就任した金沢篤HCの右腕として、王座奪還を目指すワイルドナイツを支えていく。