Jリーグ懐かしの助っ人外国人選手たち
【第12回】トニーニョ
清水エスパルス浦和レッズ

 Jリーグ30数年の歩みは、「助っ人外国人」の歴史でもある。ある者はプロフェッショナリズムの伝道者として、ある者はタイトル獲得のキーマンとして、またある者は観衆を魅了するアーティストとして、Jリーグの競技力向上とサッカー文化の浸透に寄与した。

Jリーグの歴史に刻印された外国人選手を、1993年の開幕当時から取材を続けている戸塚啓氏が紹介する。

 第12回はトニーニョだ。この登録名でプレーしたブラジル人選手は3人いるが、今回はJリーグ開幕前の読売クラブ、清水エスパルス、浦和レッズでプレーしたアントニオ・ベネディット・ダ・シルバを取り上げる。

   ※   ※   ※   ※   ※

【Jリーグ】「飛行機ポーズ」で大人気 清水エスパルスを全国区...の画像はこちら >>
 1991年から1996年まで日本でプレーした彼は、「ビッグネームに負けたくない」との反骨心を胸に秘め、所属したどのチームでも結果を残した。

 トニーニョと聞いて、「飛行機ポーズ」を思い起こす人は多いだろう。両手を大きく拡げて歓喜を表現する彼のゴールセレブレーションは、カズやモネールのダンスとともに子どもたちを喜ばせたものだった。

 来日は1991年夏である。日本サッカーリーグのラストシーズンに、読売クラブの一員となった。186cm、79kgのサイズを持つ、重量感のあるストライカーとして。

「監督のペペとは、ブラジルのクラブで一緒に仕事をしたことがあった。カズ(三浦知良)のことも、彼がブラジルにいるころから知っていた。日本へ来ることになったのも、カズとのつながりがあったから」

 ペペとカズだけではない。

読売クラブにはブラジル人のスタッフと選手がいて、ポルトガル語を話す日本人選手もいた。

「だから、環境にはすぐに馴染むことができた」

 日本のプレースタイルにも、すぐに適応した。

「ブラジル人が多いのは、ピッチの中でも役立った。ポルトガル語でコミュニケーションが取れるから、自分がどういうプレーをしたいのか、どういうパスがほしいのかを、すぐに伝えることができたからね」

【読売クラブからの契約延長を固辞】

 通称「JSL」の日本サッカーリーグは秋春制で、リーグ戦開幕前にJSLの1部・2部のクラブが出場するカップ戦が開催される。ここでトニーニョは、いきなり大爆発した。

 2部の中央防犯サッカー部との1回戦で、5ゴールを叩き出した。1部の本田技研との決勝戦では武田修宏、カズ、北澤豪とともにゴールを決め、4-3の勝利に貢献している。大会通算では10得点を記録した。

 1991-92シーズンのJSLでは、18ゴールをあげて得点王に輝いた。中山雅史(ヤマハ発動機)、ウルグアイ人ゲームメーカーのペドロ・ペデルッチ(東芝)、高木琢也(マツダ)らを抑えて、ランキングのトップに立ったのだ。のちに知られる得点後の飛行機ポーズも、当時から見せていた。

「読売クラブに来た時、自分のことを知っている人はたぶんいなかったと思う。ブラジル代表に選ばれたこともあるんだけどね。

だから結果を残して、トニーニョという選手を知ってもらう必要があったんだ。このまま日本でプレーしたいと思っているので」

 最前線でドッシリと構え、カズや武田との連係もスムーズだった。何よりも決定力が高かった。読売クラブは契約延長を打診するが、トニーニョは意外な選択をする。Jリーグ開幕に合わせて立ち上げられた清水エスパルスへ移籍するのだ。

 新天地のアタッカー陣は、長谷川健太、向島建、ブラジル人のミランジーニャらで構成されていた。トニーニョは最前線ではなく中盤で起用され、トップ下やサイドハーフでプレーするようになる。時にはボランチのように振る舞うこともあった。

 先発メンバーが1番から11番を着ける変動背番号制では、8番を多く着けた。1993年のJリーグ開幕節にも「8」を背負って出場し、後半終了間際にゴール前のこぼれ球をプッシュしてJリーグ初ゴールをマークしている。

 2節のサンフレッチェ広島戦では、16分にあげたゴールが1-0の勝利を呼び込んだ。3節の鹿島アントラーズ戦でも、澤登正朗の左CKからヘディングシュートを決めている。

堀池巧が決めた決勝点も、トニーニョのヘディングシュートがバーを叩いた跳ね返りをプッシュしたものだった。

【得点能力を全解放した1994年】

 開幕から好調を維持し、チームも白星を先行させていた。しかし、6節のヴェルディ川崎戦で負傷してしまう。トニーニョの1993年シーズンは、シーズン開幕からわずか2週間で終わりを告げたのだった(当時は水曜日と土曜日の週2回開催だったので、試合消化のペースが早かった)。

「ケガをするまで、チームの攻撃は自分を中心に機能していた。だから試合に出られなくなって、ものすごく残念だった。そのぶん、翌年に賭ける思いが強くなった」

 果たして、1994年は得点能力を全解放する。2列目のポジションを定位置としながら、ファーストステージの22試合で16ゴールを叩き出した。「クモ男」の異名を取ったGKシジマール、現役ブラジル代表で1994年のアメリカワールドカップに出場するCBロナウド、それにトニーニョがセンターラインを構成するチームは、サンフレッチェ広島と優勝争いを演じた。

「得点王を取りたいんだ。ジェフのオッツェとか鹿島のアルシンドとか、いいストライカーはいるけれど、ゴールのチャンスが来れば決められる自信はある」

 セカンドステージでも、チャンスが来れば決めてみせた。しかし、ファーストステージほどには、チャンスは巡ってこなかった。オッツェことフランク・オルデネビッツ(ジェフユナイテッド市原)の30ゴールに届かず、ランキング6位の22ゴールでフィニッシュした。

 1995年も2列目を定位置とし、ファーストステージでチームトップの11ゴールをマークする。しかし、セカンドステージ開幕節のメンバーに、トニーニョの名前はない。

 ファーストステージでリーグワーストの失点を記録したことを受けて、クラブは守備の建て直しに着手する。鹿島アントラーズから、ボランチのサントスを獲得した。前線には元イタリア代表FWダニエレ・マッサーロが加わる。

 残りひとつの外国人枠は、ファーストステージで9得点を記録していたジアスに与えられた。トニーニョは実質的に構想外となる。1995年8月に浦和レッズへ期限付き移籍した。

【浦和でまさかのCBコンバート】

 浦和では背番号11を着け、ストライカーのポジションでプレーした。ところが、セカンドステージが中盤から終盤へ向かう15節で、トニーニョはCBにコンバート(!)された。

「オジェック監督からは『守備を強化したいから』と言われたけど......正直に言って、センターバックで試合に出るのは難しかった。それまでやったことがないからね」

 翌1996年は清水に復帰する。

再び攻撃的なポジションでプレーするが、右ひざをケガした影響でほとんど稼働できなかった。

 オリジナル10のひとつである清水では、印象的な活躍をした助っ人外国人が何人もいる。そのなかでも、1994年のファーストステージで実現したシジマール、ロナウド、トニーニョのセンターラインは、清水の歴史のなかでも特別なものだったと思うのだ。

編集部おすすめ