学校での部活を取り巻く環境が変化し、部員数減少も課題と言われる現在の日本社会。それでも、さまざま部活動の楽しさや面白さは、今も昔も変わらない。
この連載では、学生時代に部活に打ち込んだトップアスリートや著名人に、部活の思い出、部活を通して得たこと、そして、今に生きていることを聞く──。部活やろうぜ!
連載「部活やろうぜ!」
【サッカー】岡野雅行インタビュー/第2回(全4回)
第1回◆岡野雅行に聞いた「部活やろうぜ!」>>
高校の入学式では、いきなり特攻服を着たヤンキーたちが殴り合いのケンカ大会を始めました。
今だから笑って話せますけど、当時はそんな余裕なんてなく、ただただ「ヤバい! 大変なとこに来ちゃったな」という恐怖だけです。
しかも当時のうちの高校は全寮制だったので、学校を離れても、常にそういう人たちが近くにいる。
当然、学校をやめようとも思いました、何回も。でも、僕らの頃って親が学校に怒鳴り込んでくるような時代ではなかったし、ちょっとつらいからって、親を悲しませるようなことは言えなかった。だから、毎日「どうしようかな」と悩む日々でしたね。
そんな学校だから、部活も大変でした。
理事長に「サッカー部はないんですか?」って聞きにいくと、「あるよ」とは言われるけれど、実際にやっているのはひとりだけ。「それ、サッカー"部"じゃないですよね」ということで、僕は「じゃあ、もう作るしかないな」と決心したんです。
僕はまだ1年生でしたけど、ないなら作るしかないじゃないですか。だったら、もう自分でやるしかない!
そこで、僕は部員の募集をして、20人くらい入ってきてくれたのが、サッカー部のスタートでした。
ただ、なかには"ケンカをするため"にサッカー部に入った人もいたんですけどね。
というのも、うちの高校は、寮と校舎の往復以外、外出することができなかったんです。なぜなら、外に出ると、問題を起こすから。
だけど、サッカー部に入れば、総合運動場などの公共施設で練習をするから、堂々と"シャバ"に出られる。向こうから歩いてくる他校のヤンキーがいたら、「アイツら、調子乗ってんな。ちょっと行ってくるわ」みたいな感じです。
初めての練習試合も大変でした。
練習だけではだんだんつまらくなってくるので、練習試合でもやろうかと考えるのですが、そもそも対戦相手を見つけるのがひと苦労。サッカーをやっていた先輩と顧問の先生、それと僕の3人でいろんな高校に電話をかけてみるんですけど、どこも「おたくの学校とは関わりたくないです」みたいな感じで、相手にしてもらえない。島根県では有名な高校だったので、仕方がないんですけどね。
そうして、ようやく見つかった初めての練習試合の相手は、絵に描いたようなヤンキー校でした。
漫画『クローズ』(作者:髙橋ヒロシ/秋田書店)に出てくる鈴蘭男子高校ってあるじゃないですか。
それでも試合ができるならいいか、と思って準備していたら、相手は全員制服姿のまま、スパイクだけ履いて出てきた。ボンタンをはいた連中が、マスクしていたり、ガムをかんでいたりで、その時点で僕は嫌な予感がしていたんですけど、先輩たちは脇でニヤニヤと笑っていました。
これは絶対何かやるぞと思っていたら、案の定、試合開始の笛と同時に、相手に向かって走っていって飛び蹴りです。
こうなると、こっちのチームにはテコンドーチャンピオンとか、ボクシングチャンピオンとかもいたので、やっぱり強い。僕、ブルース・リーの映画以外で、あんなに人が次々に倒れていくのを初めて見ました。
ボールはまったく動かず、得点も入らなかったんですけど、先輩たちによれば、勝ったのはうちの高校だったようです。
ただ、ここから先は少しいい話になるんですけど......、その後、初めてまともに練習試合をしたら0-22で負けて、その次も10点以上取られて連戦連敗。だけど、そのスコアが、次の試合では0-5になり、その次は0-2になり、ついに0-0になったんです。
その試合のあとは、ただの練習試合なのに、全員で抱き合って大泣きでしたね。
だって、小学校からサッカーやっていたのは僕くらいで、ほとんどが高校からサッカーを始めたヤツらばかりなんですよ。それまでは、人しか蹴ったことがないんですから。
そんなヤツらが、そこまで成長していくのをそばで見ていたら、僕も感動したし、「オレももっとやんなきゃ!」って思わされましたよね、逆に。
僕がほぼ監督という感じで教えていたんですけど、意外と練習も真面目に一生懸命やってくれたんですよね。みんな、サッカーが好きになっていったんじゃないのかな。
(つづく)
岡野雅行(おかの・まさゆき)
1972年7月25日生まれ。神奈川県出身。松江日大高を卒業後、日本大学に進学。1994年、大学を中退し浦和レッズ入り。快速FWとして1年目から活躍。1995年には日本代表に選出され、1997年のW杯予選アジア第3代表決定戦ではVゴールを決めて日本を初のW杯出場に導いた。1998年フランスW杯では第2戦のクロアチア戦で途中出場。