学校での部活を取り巻く環境が変化し、部員数減少も課題と言われる現在の日本社会。それでも、さまざま部活動の楽しさや面白さは、今も昔も変わらない。
この連載では、学生時代に部活に打ち込んだトップアスリートや著名人に、部活の思い出、部活を通して得たこと、そして、今に生きていることを聞く──。部活やろうぜ!
連載「部活やろうぜ!」
【サッカー】岡野雅行インタビュー/第3回(全4回)
第1回◆岡野雅行に聞いた「部活やろうぜ!」>>
第2回◆岡野雅行が啞然とした高校初の練習試合>>
漫画みたいな大乱闘から始まった高校のサッカー部でしたけど、とにかく続けていたら、だんだんと強くなっていきましたね。
僕らが3年生になったときには、選手権(全国高校サッカー選手権大会)の県予選前に、「"あの高校"が、今や優勝候補!」みたいな感じで新聞に特集されるまでになり、今度はサッカーで有名になりましたから。
だって、もともとヤンキーだったヤツらがふたり、島根県選抜にも選ばれたんですよ。それ、ヤバくないですか。彼らは高校からサッカー始めたんですよ。
ケンカが強い人たちって、やっぱり根性があるんですよ。だから、走りの練習でも絶対にサボらないし、ギブアップもしない。
それを見ていたら、「自分ももっとやらなきゃ!」って思うじゃないですか。僕は監督兼キャプテンみたいな立場でしたけど、あれで教えられました。
今考えると、あの高校へ行ってよかったなって、ちょっと思います。
僕自身も大阪まで行って、中学生のいい選手がいたら、「うちで一緒にサッカーやろう」って勧誘したりして......、よく考えたら、そのころからGMやってんじゃん、みたいな感じですよね。
ただ、高校最後の選手権予選では、島根県で優勝候補って言われていたのに、あれは何回戦だったのかな、すぐに負けちゃって。それも最後のPKを外したのが、僕だったんです。
試合は同点のまま延長でも決着がつかず、PK戦になったんですけど、相手は5人全員、うちも4人目まで全員が決めて、僕が最後のキッカー。それを外したんです。
「うわー、やっちゃった」って思いましたね。今でもよく覚えていますけど、「自分でサッカー部を作ってここまでやってきたのに、こんな結果になってしまった」って。
でも、泣き崩れていた僕のところにみんなが駆け寄ってきてくれて、「ありがとう。おまえがいなかったら、ここまで来るのは無理だった」って言ってくれた。あれには僕、感動しましたね。
あのときの選手権予選は、今考えても、全国大会に行ける自信があったんですけどね......。島根県のなかで負けるとしたら、大社か、益田くらいしかなくて、ひょっとしたら余裕で(選手権に)行けるんじゃないか、と思っていたくらいですから。
その後、母校(現・立正大学淞南高校)は選手権に何度も出場するようになって、(2010年度大会ではベスト4に進出して)国立にも行っています。
初出場のときは、めっちゃうれしかったですね。だって、あのとき僕、エナジードリンクのCMに出ていたので、差し入れで持っていきましたから。僕が初めて選手権の試合を見に行ったときには、スタンドの応援団が「岡野先輩、ありがとう!」なんてコールしてくれてね。もう本当に感動しました。
だけど、僕が見に行くと、だいたい負けるんです、うちの高校。ベスト4のときも、僕が見に行かなかったから、国立まで行けたんですよ、きっと。
そのときも僕が国立へ応援に行ったら、準決勝で負けちゃいましたからね。「やっぱ、オレが行ったら負けるんだ......」って、かなりヘコみましたね。
だって、その大会で優勝した滝川第二高校を相手に、内容的には圧倒していて、絶対勝てる試合だったんですよ。相手GKと1対1になってGKも抜いたのに、無人のゴールへのシュートを外しちゃったりして。結局、0-0のままPK戦になって、そこで負けてしまいました。
あれ以来、もう母校の試合は見に行かないと誓っています。
高校時代は、今振り返っても地獄のような日々でした。それでも、やっぱりあそこで逃げなかったことが、今につながっているのかなとは思います。
たぶん、あのとき逃げていたら、今はないですね。サッカーもやっていなかったかもしれないし。
卒業式では、当時すごく怖かった先生が大泣きして、「おまえら、よく耐えた! おまえらは、これで生きていけ!」って言ってくれたのを思い出します。
卒業したのに「おめでとう」じゃないのかよ、って感じですけど、でも、言っていることはよくわかります。あそこで耐えることができたから、世の中に出ても何も怖くないんだろうなって思いますから。
(つづく)◆壮絶な高校生活を送った岡野雅行が語る部活動>>
岡野雅行(おかの・まさゆき)
1972年7月25日生まれ。神奈川県出身。松江日大高を卒業後、日本大学に進学。1994年、大学を中退し浦和レッズ入り。