学校での部活を取り巻く環境が変化し、部員数減少も課題と言われる現在の日本社会。それでも、さまざま部活動の楽しさや面白さは、今も昔も変わらない。
この連載では、学生時代に部活に打ち込んだトップアスリートや著名人に、部活の思い出、部活を通して得たこと、そして、今に生きていることを聞く──。部活やろうぜ!
連載「部活やろうぜ!」
【サッカー】岡野雅行インタビュー/第4回(全4回)
第1回◆岡野雅行に聞いた「部活やろうぜ!」>>
第2回◆岡野雅行が啞然とした高校初の練習試合>>
第3回◆岡野雅行が振り返る「地獄の日々だった」高校時代>>
高校時代の部活を通して、そのときはただただ必死で全然気づかなかったし、つらいことばかりでしたけど、本当にいろんなことを教えてもらいました。
何もないところに、イチからサッカー部を作り、サッカーをやったことがない人たちの努力をそばで見てきて、こんなにもうまくなるんだとか、やればできんだとか、そういうことを全部教えてもらったのが部活でしたね。
僕はプロに入って、「野人」と呼ばれるようになりましたけど、あの高校じゃなかったら、僕は野人になっていなかったんじゃないかな。人とは違った生き方ができるというか、型にはまらず、自分で道を切り開いていけるというか。
世の中は理不尽なことが多いって言われますけど、あの高校に比べたら、たいしたことはない。だから僕は、世の中に出て何か大変なことがあっても、「どうにかなるんじゃない?」って思っちゃう。
本当は高校時代って人生のなかでも一番楽しい時期のはずなのに、本当につらかったんでしょうね。今でも、あれよりつらいことはなかなかない、ってポジティブに考えることができますから。
あそこでの経験は、間違いなくプロで活躍することにもつながったと思います。
逃げちゃいけない。逃げ出したらダメで、自分で切り開いていくしかない。
部活の仲間や先輩たちも同じで、もともとがヤンキーばかりだったので、卒業後はどんな道へ進むのかなと思っていた(心配していた?)んですけど、ちゃんと仕事をされていて、自分で会社を興して社長になっている人がすごく多い。あの人たちもやっぱり、自分で生きる道を切り開いてきたんです。
なかには、今もサッカーを教えているヤツがいますからね。そいつなんて高校時代はパンチパーマで、家にも遊びに行ったことがあるんですけど、両親も兄姉も気持ちいいぐらいのヤンキー一家だったんですよ。でも、サッカーで彼の人生は変わった。今もサッカーを続けているって聞いたときは、本当にうれしかったですね。
サッカー部を作ってよかったって思いますし、部活は本当にすばらしい!
みんなで同じ目標に向かって、同じ練習をして、同じ苦労を味わって。ときには泣いてしまうこともあるけど、そんなときには、みんなで助け合うわけじゃないですか。誰かに文句を言ったりすることもあるけど、そこにウソはないし、勝っても負けても全員の責任。その一体感は、部活でしか味わえない。
やっぱり苦しい思いをするからいいんじゃないですか、部活って。
アイツが頑張っているから、オレも負けていられない、みたいな気持ちになるのは、部活を通じて教わっていることなんじゃないですかね、無意識のうちに、勝手に。
最近は、僕らの時代なんかとは比べるものにならないぐらい暑いなかで活動しなければいけないから、特に屋外スポーツは本当に大変だと思います。
でも、新型コロナウィルスが蔓延していた数年前を思い出すと、部活をしたくてもできなかった。うちの娘もテニス部でしたけど、活動できずにいるのを見ていましたから。
そういうやりたくてもやれなかった子たちの気持ちを考えれば、暑くて大変だとは思うけど、部活ができていることに感謝して、幸せに思ったほうがいいのかもしれない。
今が当たり前だとは思わないでね、とは思います。
もちろん、誰もが部活をやるべきだって強制するつもりはないし、やりたくなければやらなくてもいい。
ただ、少しでもやってみたい気持ちがあるなら、一回やってみるのはすごく大事なことだと思います。ウソがない仲間ができるっていうのは、部活のいいところだと思うし、それは運動部に限らず、きっと文化部でも同じですよね。
だって、みんなで何かの目標を決めて、それに向かって進んでいるときが一番楽しいじゃないですか。道の途中で、必死にもがいているのが楽しいんですよ。
そういうのをひとりじゃなくて、みんなで共有できるっていうすばらしさが、部活のよさ。僕はそう思っています。
(おわり)
岡野雅行(おかの・まさゆき)
1972年7月25日生まれ。神奈川県出身。松江日大高を卒業後、日本大学に進学。1994年、大学を中退し浦和レッズ入り。快速FWとして1年目から活躍。1995年には日本代表に選出され、1997年のW杯予選アジア第3代表決定戦ではVゴールを決めて日本を初のW杯出場に導いた。1998年フランスW杯では第2戦のクロアチア戦で途中出場。その後も浦和で奮闘し、2001年にヴィッセル神戸に期限付き移籍。2002年に完全移籍したあと、2004年には完全移籍で浦和に復帰。2009年2月には香港リーグの天水圍飛馬に移籍し、同年8月には当時JFLのガイナーレ鳥取に移籍した。