プロ野球ブルペン史
ブルペン一筋18年、宮西尚生が語る「リリーフのセンス」(前編)

 2025年5月15日のオリックス戦、日本ハムの宮西尚生が880試合連続救援登板を果たし、プロ野球新記録を樹立した。08年のプロ初登板から一度も先発がなく、18年間、リリーフで投げ続けてきた。

通算ホールド数は24年8月に前人未到の400を超え、歴代断トツ。通算407セーブの岩瀬仁紀(元中日)と並び、ブルペン史のなかで頂点に立っている。

 市立尼崎高から関西学院大を経て、2007年の大学・社会人ドラフト3巡目での入団。「関西の大学球界屈指の左腕」と評されながら、4年秋のリーグ戦で調子を崩してのプロ入りだった。それでも06年からリーグ連覇したチームで即戦力となり、1年目から50試合登板。背景に何があったのか──。9月23日の楽天戦では史上4人目の通算900試合登板を達成した宮西に聞く。

宮西尚生はなぜ真っすぐとスライダーだけで勝負できたのか プロ...の画像はこちら >>

【プロ1年目のキャンプ2日目でフォーム改造】

「僕が入った年はちょうど、左の中継ぎ、特にワンポイント。言い方悪いですけど、そこは"穴"がある部分でした。当時はまだ、左のホームランバッターが他チームにたくさんいましたから、そこを抑えられる選手を、おそらくチームは求めていたと思うんです」

 抑えのMICHAEL(マイケル中村)、セットアッパーの武田久が中心だった当時のリリーフ陣。ダルビッシュ有が軸の先発陣では武田勝、藤井秀悟と左は二枚いたが、中継ぎは大半が右投手で左は手薄だった。そのなかで宮西は球持ちのよさ、初動ゆっくりでリリース時は素早いフォームに特徴があり、キャンプ前から一軍首脳陣の目に留まっていた。

「自分の場合、今はあれでも落ち着いているんですけど、当時はもっとグシャグシャなフォームで。

そこはまず『打ちづらさがある』ということで目をかけてくれて、育てるという形から始まったプロ野球だったんです。というのは、僕自身、大学の時はもちろん先発で投げていましたけど、状態を落としていたなかでのドラフト指名だったんですね。

 だから、『プロで何かを変えたい』という思いが自分のなかであって。そしたらもう、キャンプ2日目ぐらいから『フォームを変えよう』っていう話になったわけです。おそらく、そこから先発っていう道はなくなったなと(笑)。ちょっと腕を下げて、スリークォーターとサイドの間ぐらいで『打ちづらさがある』と。そこの部分を見出してもらったんです」

 1年目の宮西は45回1/3を投げて被安打47、自責点22で防御率4.37。それが2年目の2009年は46回2/3で被安打39、自責点15で防御率2.89と良化し、翌10年は47回2/3で被安打29、自責点9で防御率1.70と大幅に改善された。特にクリーンアップ相手の対戦成績が顕著で、09年は被打率5割台だったのが、10年は0割台。何をどう変えたのか。

「最初は左打者を専門的に投げていたのが、2年目にいいところで投げさせてもらえる回数が多くなると、右打者との対戦でよく痛打される。そこで次の年は対右を課題として、『じゃあ、どう攻めるか』と。

キャッチャーの方と相当、キャンプ中から練習しました。何かが変わって一気に成長するというよりも、何とか少しずつ、地味に成長させてもらったと思います。投手コーチ、監督には」

【真っすぐとスライダーしか投げなかった理由】

 5年目頃には「右でも苦じゃないというスタンスをつくっていただけた」と言う宮西。あくまでも指導者と先輩方のおかげ、との姿勢が示されている。ただ、当時から長い間、ほぼ真っすぐとスライダーの2球種で抑えてきた。痛打されて、どう攻めるかとなった時、自身で球質を高めるよう努めつつ、ほかの球種の習得も考えたことだろう。

「右打者に打たれるようになって、いろいろ違う変化球を試すこともあったんです。でも、リリーフは先発と違って、1イニング、たかが10分、その一瞬の登板にすべてをかけないといけない。特に"勝ちパターン"でいくってなると、打たれた場合、今まで積み上げたものがすべて台無しになってしまうというなかで、ほかの変化球でいった場合に悔いが残っちゃうんですよね」

 4年目の2011年。宮西は開幕してまもないロッテ戦で今江敏晃に逆転2ランを浴び、5月のソフトバンク戦では松田宣浩に2ランを打たれて勝ち越され、いずれも敗戦投手になった。だが、この時以上に痛い思いをしたのが、同年のソフトバンク戦でアレックス・カブレラに痛打を食らった時だ。チェンジアップを覚え、初めて試した1球目を打たれて後悔が残った。

「リリーフは打たれれば"戦犯"、抑えても"当たり前"。

この厳しいなかで、いかに自分のメンタルをコントロールするかと言ったら、打たれるにしても納得できる球を投げること。でないとチームに申し訳ないし、"勝ち"で投げていくうちに責任を強く感じるようになって。勝負球だけじゃない、全球、1球たりとも気を抜いて投げない。そこがすごく大事やなって感じたんです」

 ほかの球種を投げて打たれ、落ち込んでいる時、後ろで守っている先輩野手のひとりに後押しされた。「逆球でも真っすぐとスライダーで押し込むのがおまえのスタイルだろ」と言われたのだった。「その時にもうスライダーが通用せんってなるまでこれ一本でいこう、って腹に決めたんです」と言って宮西は笑うが、それでも抑えきれるものなのだろうか。

「やっぱりしんどかったですよ。その日、スライダーがダメだったら真っすぐしかないんで。だけど、『おまえの攻めてる姿勢が、うしろで守っている野手らはすごいと思ってるし、おまえがそれで打たれるんやったら、それはそれで納得できる。だから弱腰じゃないけど、逃げたような球を見せるな』って先輩に言われて。十何年、スライダー一本で行きました」

【状態がいい日なんて年間に数日しかない】

 2023年にチェンジアップを完全習得するまで15年間、真っすぐとスライダーだった宮西。カブレラに打たれた当時のチェンジアップは外角に逃げるような球で、簡単に遠くに飛ばされたことだけが記憶に残る。

ほかのことははっきり覚えていないという。

「ちゃんと自信持って投げた球が打たれた。これは自分の力不足なんで納得もできるし、また練習すればいいってなるけど、かわそうとした球で打たれると、『なんだ、真っすぐかスライダーを放っておけばよかった』って、ずっと心に引っかかっちゃうんですね。

 で、リリーフは次の日も登板があります。だからいかにメンタルを平常に戻せるかがすべてだと思うので、引っかかったままではやっていけない。そういうところで、納得いく球を永遠に磨き続けるというのが、ここまでの自分のスタイルです」

 大事な場面で納得のいく球を投げても、痛打される。すべてを台無しにするような失敗をしてしまう時がある。そんな時はどう切り替えてきたのだろう。

「毎年リリーフで投げていて、状態がいい日なんて年間に数日しかないんですよ。ほとんどがふつう以下なんです。だから、そのなかでどうパフォーマンスを出せるかが大事なんですけど、そういう状態で打たれると......もう、あきらめるしかないんですよね。

 そこで周りが『そんな気にすんなよ』って言っても、リリーフやった人はわかると思うんですけど、意味ないんですよね。

気休めでしかなくて。結局、次の日、登板して抑えることが一番の薬なんですよ。だから、次の登板に向かう精神力っていうのが、リリーフのセンスだと思うんですよ」

 リリーフのセンス──。これまでブルペン史に残る投手たちの取材を続けてきて、初めて耳にする言葉だ。プロ1年目から50登板以上を14年間続け、18年間、一度も先発がない投手の言葉だ。

「ずっと引きずったまま、たまたま抑えて、『やっと回復してきた』というのでは、リリーフとしてのセンスはないんです。次の日、怖くてもマウンドに立ち、闘争心をむき出しにして相手を抑える。そうしたことができるセンスを持ったピッチャーこそ、リリーフの適性があると思います」

(文中敬称略)

後編につづく>>

宮西尚生(みやにし・なおき)/1985年6月2日生まれ。兵庫県出身。市尼崎高から関西学院大を経て、2007年大学・社会人ドラフト3位で日本ハムに入団。プロ入り1年目から14年連続50試合以上登板を果たすなど、チームに欠かせない戦力として活躍。16年には史上2人目の200ホールドを達成。

24年には前人未到の400ホールドを記録し、25年5月15日のオリックス戦では880試合連続救援登板の日本記録を達成。また9月23日の楽天戦で史上4人目の通算900登板を達成した。

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