連載・日本人フィギュアスケーターの軌跡
第6回 小塚崇彦 後編(全2回)
2026年2月のミラノ・コルティナ五輪を前に、21世紀の五輪(2002年ソルトレイクシティ大会~2022年北京大会)に出場した日本人フィギュアスケーターの活躍や苦悩を振り返る本連載。第6回は、フィギュアスケート一家に育ち、2010年バンクーバー五輪に出場した小塚崇彦の軌跡を振り返る。
【憧れの舞台で4回転ジャンプ成功】
5歳の時に父・嗣彦さんの1968年グルノーブル五輪の参加賞を見てから憧れていた五輪の舞台。小塚崇彦は悲願の2010年バンクーバー五輪の出場を決めた。
そのショートプログラム(SP)。上位3選手が90点台で激しく競り合う展開のなか、「朝の練習のあとはすごく緊張して胃が痛くなっていましたが、本番はいつもの試合どおりにやれました」と小塚。両足着氷になったトリプルアクセルと後半の3回転フリップはGOE(出来ばえ点)で減点となったものの、流れは途絶えさせず満足の笑顔を見せる滑りとした。
「欲を言えば80点台に乗せたかった」と言うが、演技構成点はほとんど7点台中盤にまとめて79.59点。日本人3番手ながら、全体8位とまずまずの発進となった。
2日後のフリーは、「すごく調子がよくて跳べていたので思いきってトライした」と言う冒頭の4回転トーループは減点になったが、しっかり回りきる着氷を披露。中盤までは流れのある滑りを見せた。
演技の後半はトリプルアクセル転倒の他に、3回転フリップと3回転ループで減点されたが、「五輪という舞台で一歩一歩を噛み締め、認識しながらできました」と話すように、粘りの滑りで最後はガッツポーズを見せた。
フリーは自身のシーズンベストの151.60点を出して合計231.19点。SP上位選手たちを崩すことはできなかったものの、総合8位という結果を残した。
21歳直前の初五輪は、「今出せる自分は出しきれた」と納得する8位入賞だった。
【五輪でつけた自信を胸に躍動】
翌2010−2011シーズンは、五輪で得た自信をもって結果を出すシーズンになった。GPシリーズは中国大会とフランス大会を連勝し、ポイント1位で進出したGPファイナルも3位に入った。
そして、全日本選手権はSPをノーミスで滑りきり、87.91点でトップに立つと、フリーでは冒頭の4回転トーループなど2回の転倒がありながらも、後続をさらに引き離して合計251.93点。初優勝を果たした。
「小さい頃に父が優勝した大会だと聞かされていた全日本選手権で優勝できたのはうれしいですが、内容は情けないというか......。もっと自分のいいところを出して、いい結果で終われたらもっと気持ちよかったと思うけど、悔しいという気持ちが残ったからこそ、次も頑張れると思います」
試合後にこう話していた小塚は、その気持ちを4月にモスクワでの開催となった世界選手権で示してみせた。SPはトリプルアクセルで着氷を乱して77.62点と6位発進だったが、フリーでは冒頭の4回転トーループを含めてノーミスの演技をし、自己最高の180.79点を獲得。合計では、当時の歴代世界最高得点を出して優勝したパトリック・チャン(カナダ)に22点以上の差をつけられたものの、自己ベストの258.41点で2位に入った。
こうして、高橋大輔や織田信成とともに日本男子をリードする存在になった小塚。織田がひざのケガでシーズン途中から欠場した2011−2012シーズン、羽生結弦が台頭するなか、小塚はGPシリーズのスケートアメリカで3位、NHK杯でも2位に入った。
【日本男子フィギュアの躍進を支えたひとり】
だが、5回目の出場となった世界選手権では、SPは4回転トーループとトリプルアクセルで転倒して13位発進。フリーでも前半のジャンプでミス。巻き返しを図ることができず、総合11位に終わって2位の高橋や3位の羽生の後塵を拝する結果となった。
2012−2013シーズンは、スケートアメリカ優勝とロシア大会2位でGPファイナルに進出。同舞台では5位に終わった。
翌ソチ五輪シーズンの2013−2014シーズンは、全日本で非公認ながら自己ベストの264.81点をマーク。羽生、町田樹に続く3位に入ったが、五輪代表には国際大会の成績を考慮された高橋が選ばれ、小塚の2度目の出場とはならなかった。
しかしそんななか、ケガで辞退した高橋の代役で世界選手権に急遽出場。総合6位と、あらためてその存在をアピールした。
そして2014−2015シーズンは、高橋と織田が引退したなか、全日本では羽生とジュニアカテゴリーの宇野昌磨に次ぐ3位になって6回目の世界選手権に臨んだ。だが、同大会では総合12位。
少し上の世代の高橋や織田を追いかけ、ふたりと肩を並べるまでの活躍を見せた小塚。それだけにとどまらず、下の世代の羽生や宇野への橋渡し役も務めた。その安定したきれいなスケーティングとスケートに対するクレバーな姿勢で、日本男子躍進の時代を支える重要な役割を果たす競技人生だった。
終わり
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<プロフィール>
小塚崇彦 こづか・たかひこ/1989年、名古屋市生まれ。2005−2006シーズン、初出場のジュニアGPファイナルで日本人男子初優勝。世界ジュニア選手権でも優勝を果たす。シニアデビューの2006−2007シーズンにNHK杯で初の表彰台に上がる。2010年バンクーバー五輪に出場し、8位入賞。2010−2011シーズンにはGPファイナル3位、全日本選手権初優勝、世界選手権2位と躍進。ケガの時期を経て、2014−2015年シーズンの全日本選手権3位。2016年に現役引退。