日本代表とブラジル代表が激突する。両者が最後に対戦したのは2022年6月のキリンチャレンジカップだったから、約3年ぶりの対決だ。

 日本とブラジルの男子A代表はこれまでに13回対戦している。その内訳はブラジルの11勝2引き分け。日本は0勝だ。以下がそのリストになる(日付は現地時間)。

ブラジル1-0日本(1989年7月23日/国際親善試合/リオデジャネイロ)
日本0-3ブラジル(1995年6月6日/アンブロカップ/リバプール)
日本1-5ブラジル(1995年8月9日/国際親善試合/東京)
日本0-3ブラジル(1997年8月13日/国際親善試合/大阪)
日本0-2ブラジル(1999年3月31日/国際親善試合/東京)
日本0-0ブラジル(2001年6月4日/コンフェデレーションズカップ/鹿島)
日本2-2ブラジル(2005年6月22日/コンフェデレーションズカップ/ケルン)
日本1-4ブラジル(2006年6月22日/ワールドカップ/ドルトムント)
ブラジル4-0日本(2012年10月16日/国際親善試合/ワルシャワ)
ブラジル3-0日本(2013年6月15日/コンフェデレーションズカップ/ブラジリア)
日本0-4ブラジル(2014年10月14日/国際親善試合/シンガポール)
日本1-3ブラジル(2017年11月10日/国際親善試合/リール)
日本0-1ブラジル(2022年6月6日/国際親善試合/東京)

サッカー日本代表のブラジル戦ベストゲームは? ブラジル人記者...の画像はこちら >>
 私は日本のサッカーを30年以上見つめてきた。当初、ブラジルで「日本のサッカーに興味がある」と言うと「変わり者」扱いをされたものだ。それはまたずいぶんマニアックな......と。だが、ブラジルと日本の試合は毎回欠かさず見ていた。A代表に限らず、オリンピックやU-20、U-17、そして女子サッカーの試合も可能な限り見るようにしてきた。いずれも日本サッカーの現在地を知るうえで極めて貴重な経験である。

 私の記憶に残っている最初の日本対ブラジル戦は1995年6月、リバプールで開催されたアンブロカップという大会だ。これは日本とブラジルが初めて国際大会で対戦した、記念すべき試合だ。

 日本の監督は加茂周で、私はその近くに座っていた。当時は規制が今よりずっと緩くて、記者はピッチサイドにも自由に出入りできた。おかげで選手や監督を間近に観察することができ、そこから生の感情を感じとることができた。

【印象に残っているケルンでの一戦】

 しかし、まず私を驚かせたのは日本のサポーターだった。彼らのようなサポーターを私はそれまで見たことがなかった。皆おそろいの、まるで新品のようなきれいなユニホームを着て、一糸乱れず旗を振り、正確なリズムで太鼓をたたいていた。まるで何かのショーを見ているようだった。

 そんな日本サポーターの熱い視線は、三浦知良に注がれていた。彼は自分がプレーするだけでなく、皆に指示を与え、チームをコントロールしていた。そのおかげか日本は中盤をタイトに保ち、スペースを与えず、こじ開けようとするブラジルに対してコンパクトにまとまって対峙していた。

 この日のブラジルは、ロナウドに加え、史上最も攻撃的なDFロベルト・カルロスを擁し、果敢に攻めていた。しかし日本はそんなブラジルを前にしても崩れなかった。

結果は0-3でブラジルの勝利だったが、私は試合を見ながらメモにこう書いたのを覚えている。

「日本は負ける時さえどのように負けるかを考えている。心を失うことなく負ける、その術を知っている」

 最も強く印象に残っている試合を挙げるとしたら、それは2005年にケルンで行なわれたコンフェデレーションズカップだ。2-2の引き分けで終わったあの試合は、私がこれまでの人生で見てきたなかでも最も濃密で、最も興味深く、最も複雑な試合のひとつだった。

 日本のベンチに座るのはブラジルの偉大なスター、ジーコ。彼の唯一の使命は、日本サッカーの変革だった。私は、中村俊輔が縦パスを出し、サイドチェンジを軽々とこなし、チームにバランスをもたらすのを見て目を見張った。それは「ブラジル風」な日本だった!

 この試合の日本は、それまでのようにただ全力で攻撃するだけでなく、さまざまな策を駆使し、なにより狡猾だった。ブラジルはスペースを探したが、日本は素早いカバーリングと予測不可能なスキームでスペースを塞いだ。伝説のFWロナウジーニョは動き回り、突破しようとする。しかしボールを持つ前に、すでに日本DFに執拗にマークされ、どのように攻めるか考える隙さえも与えられなかった。ブラジルを抑えるには、才能だけでは足りない。

しっかりとした戦術的基盤が必要であるということを、あの日の日本は教えてくれた。

【日本の選手たちは勇気を見せてくれた】

 もうひとつの忘れられない試合といえば、やはり日本とブラジルが唯一最高の舞台でぶつかった時のことだろう。2006年ドイツワールドカップだ。

 私はドルトムントで、日本がさらに進化するのを見た。チームを率いるのはやはりジーコ。彼は日本サッカーという交響曲を見事に指揮した。ジーコと日本のせいで、私はこの時生まれて初めてブラジル戦で相手チームを、応援してしまった。ほんの一瞬ではあったが、日本のゴールを願ってしまった。

 日本のディフェンス陣は、以前のようにむやみにボールをクリアなどせず、それどころか後方から攻撃の組み立てを始めた。ショートパスをつなぎ、互いにサポートし、絶え間なく動く。その日のブラジルはジウベルト・シウバ、ロナウド、ロナウジーニョ、ロビーニョ、カカ、ジュニーニョ・ペルナンブカーノと、そうそうたる顔ぶれを揃えていたが、日本は恐れを見せなかった。スコアの上ではブラジルは日本に完勝したが、ピッチ上では日本の選手たちはすばらしい勇気を見せてくれた。

そのことは試合後、ブラジルのカルロス・アルベルト・パレイラ監督も認めている。

 玉田圭司、中村俊輔、稲本潤一、小笠原満男、三都主アレサンドロ中田英寿......この時の日本は本当にすばらしく、プレーは聡明だった。そしてこの試合で私は気づいた。世界のサッカーの舞台で、日本は脇役から主役へと変わりつつあることを。

 その予感は的中した。その後も日本は一度もワールドカップを逃さず、2018年と2022年大会では、連続してラウンド16にまで進出。強豪スペインとドイツさえも破るチームとなった。

 ジーコが日本に来たばかりの頃、彼から何度もこんな言葉を聞いた。「日本にはいい意味でのズル賢さがない」――つまりマリーシアの欠如だ。礼儀正しい日本人には馴染まない発想だったかもしれないが、抜け目ない世界の選手たちを相手に戦う時、どうしてもこれが必要となる。狡猾な日本を見るのは、夢物語のように思っていたが、今では、困惑することもなく、適材適所でそれを使えるようになった。慎重であるがゆえに勇敢さに欠けるチームだったのが、自分たちらしさを持ったチームになった。

ショートパスが連続するのは、ボールを持って何をすべきかを知っているからだ。選手たちは肉体的にも精神的にも強くなった。

 Jリーグの創設、優秀な外国人選手や指導者の招聘、日本選手の海外進出......。長いプロセスを積み上げて、「私の日本」はもう世界のサプライズではなくなった。アジアのトップであり、明確なアイデンティティを持つ。

 一方のブラジルは迷子になった。成功に慢心し、つまずいた。ピッチ上での口論、戦術的混乱、誤ったバランス、試合への恐怖......。現在のブラジルは監督にカルロ・アンチェロッティを得て、ようやく深刻な危機から抜け出そうとしているところだ。

 10月14日、その両者が再び相まみえる。

 もし日本が史上初めてブラジルを倒しても、もはや驚きではないだろう。私はノートとペンを持ってそれを見よう。

サムライブルーの成長を確かめるために。

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