日本ボクシング世界王者列伝:オルズベック・ナザロフ ペレスト...の画像はこちら >>

井上尚弥・中谷潤人へとつながる日本リングのDNAたち13:オルズベック・ナザロフ

 1990年代の初め、アマチュアボクシング最強のソビエト連邦から日本の協栄ジムにやってきたトップボクサーたちがいた。当時のソビエト連邦の開放政策から、いわゆるペレストロイカ・ファイターと呼ばれた彼らのなかで、一番出世を果たしたのが勇利アルバチャコフ(WBC世界フライ級チャンピオン)。

そして、勇利に続いてプロの頂点にたどり着いたのが、オルズベック・ナザロフだった。このテクニカルなサウスポーの戦いは、いっさい奇をてらうことなく、基本どおりのストレートを軸に攻め立て、世界の強豪を次々に打ち砕いていく。ただし、その実力相応の人気を獲得したとは言い難い。

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【私の名前は『オルズベック』、と新王者は言った】

 1993年秋、WBA世界ライト級のチャンピオンベルトを手に日本に帰ってきた"グッシー"・ナザロフの記者会見が、新宿の協栄ジムで開かれた。代表質問の最初だったと思う。

「グッシー・ナザロフさん。おめでとうございます」

 新たな世界チャンピオンの表情は硬いまま、動きはない。そして口にした。

「誰だね、それは? 私の名前は断じてオルズベック・ナザロフだ」

 通訳がちょっとためらったあとでこの言葉を日本語にすると、あたりの空気が緊張に包まれた。

「グッシー」とは協栄ジム側が命名した日本仕様のリングネームだった。チリチリの頭髪が、具志堅用高(WBA世界ライトフライ級元チャンピオン)のアフロヘアとそっくりで、太い眉に濃い口ひげも同じということで名づけられ、デビューからこの日までずっと使われてきた。あの頃、海外から日本のジムにやってくるボクサーは、ファンに馴染みやすくするための日本名や、日本にちなんだリングネームがつけられた。グッシー・ナザロフも同じだった。

【三番手のペレストロイカ・ファイターから世界王者へ】

「世界チャンピオンたる者を、軽々しくニックネームで呼ぶな」。あのときのナザロフの厳しい口調には、内なるプライドがはっきりと込められていた。ずっとあと、引退してキルギス共和国の名士となってからのインタビュー記事によると「グッシーという名前がイヤだったわけではありません。もちろん、具志堅さんが嫌いだったわけでもありません」としたうえで「世界タイトルマッチは、本名で戦いたかったのです」と語っていた。

 長い時間を経て、語り口には大人の配慮がつけ加えられたにしろ、世界の最高地点に立ち向かうその前提は、あくまで自分自身の誇りであり、祖国キルギスタン(現在の名称はキルギス共和国)の名誉のためだったと、あらためて強調していた。

 ナザロフには、自分自身の努力によって這い上がり、そして掴んだ世界王座の栄冠という自負があったはずだ。アマチュア時代の活躍で、故国ではすでに英雄だったが、日本にやってきてからは、ずっと"三番手"に甘んじてきた。トップは言うまでもなく、同僚として最初に世界チャンピオンとなったアルバチャコフ、そして、もうひとり、どうしても追い越せないライバルがいた。スラフ・ヤノフスキーという、同じペレストロイカ・ファイターである。

 ベラルーシ出身のヤノフスキーは技巧一本で勝負する1988年ソウル五輪ライトウェルター級金メダリスト。ナザロフとはウェイトが近く、数限りないほどスパーリングを重ねたが、ナザロフはなかなか勝つことができなかったという。

 そういう日々を乗り越え、実績のうえではやっとアルバチャコフに追いつき、ヤノフスキーも追い抜いた。そういう高揚感のなかで、世界王座奪取からの凱旋記者会見も行なわれていた。

【無敵に近かったソビエトでのアマチュア時代】

 キルギス共和国の首都ビシュケクから北東に20km。カザフスタンとの国境が間近に迫るカントという人口2万ほどの地方都市に生まれた。ボクシングを始めたのは10歳。ジュニアの時代から常にトップクラスで戦った。15歳でソビエト・ジュニア選手権優勝。1984年からソビエト選手権4連覇(86年には代替大会)。ジュニア時代を含めると6年連続でナショナル・チャンピオンになっている。

 2024年パリ五輪の男子ボクシング実施7階級中5階級を制したウズベキスタン、プロ転向後、豪打をほしいままにしたゲンナジー・ゴロフキン(世界ミドル級チャンピオン)を生んだカザフスタン、あるいは高品質な技巧の伝統と圧倒的な層の厚さを誇るロシアと、当時はすべてソビエト連邦の構成国だったのだから、この6連覇の意義はあまりに大きい。86年世界選手権銅メダル、87年ヨーロッパ選手権優勝と国際大会でも強さを発揮した。88年ソウル五輪代表の座は、当時19歳の超新星コスタヤ・ジュー(のちの世界スーパーライト級名チャンピオン)に奪われたが、依然、世界のトップレベルにあったことに変わりはない。

 1990年、日本でプロ転向してからも、その強さは圧倒的だった。1年、5戦(オールKO勝ち)のキャリアで日本王座に挑戦したときは、外国人選手の日本タイトル挑戦資格についてクレームがついた。ナザロフは意に介することなく、あっさりとKO勝ちで日本ライト級チャンピオンとなった。

さらにその1年後には東洋太平洋チャンピオンとなり、5度の防衛戦のうち4度はKO勝利と、リングの上では向かうところ敵なしだった。

 1993年10月30日、念願の世界挑戦の日がやってくる。遠く南アフリカに遠征し、地元のディンガン・トベラに挑む。3ラウンドに左フックを不用意に浴びてダウンを喫したものの、危機はこの1度きり。シャープでコンパクトな右ジャブで戦いをコントロールすると、左ストレートを次々にボディ、顔面と打ち込む。10ラウンドには逆転のダウンを奪い、そのまま大差の判定勝ち。トベラはその後、ライト級より15kgも重いスーパーミドル級の世界チャンピオンになったほどのタフガイだったが、ナザロフの強さばかりが光った。

【新天地をフランスに求め、そして引退】

 敵地からベルトを奪って日本に帰ってきたナザロフだったが、人気が沸騰したかというとそうではなかった。堅実な技巧派であり、どこまでも攻撃主導の組み立て、パンチも飛び抜けて硬質で、豪快KOを連発する。米国で過去2度も世界王者になっているジョーイ・ガマチェを問答無用に斬って落とす豪快KO勝利を収めもした。

しかし、日本のファンの心を刺すことはできなかった。世界チャンピオンとして3度、日本で戦っているが、そのうち2度はキャパシティ2000人にも届かない後楽園ホール、もうひとつは福島県いわき市のローカルリングだった。

同じソビエト組のアルバチャコフの鋭敏な攻撃力と比べると、どこか動きの重さが目立ってしまったのか。あるいは、どこまでもドラマチックだった辰吉丈一郎(大阪帝拳)と時代が重なったのも影響したのかもしれない。

 1996年、協栄ジムとの契約を解消し、フランスのプロモーションに移籍するが、試練の再出発となった。翌年には米国のトップホープのひとりにも数えられたリベンダー・ジョンソンを圧倒的なTKOに下したが、その試合後、キルギスに帰国したナザロフは友人と乗る車がギャングに襲撃され、ふたりの友人は銃殺された。そのとき、自身も腕を撃たれている。さらに1998年、フランスで同じプロモーションに所属するジャン・バティスト・メンディ(フランス)に番狂わせの判定で敗れた。直後に左目が失明危機であることが判明し、引退を決意した。その左目は4度も手術しながら、視力を回復することはなかった。

 キャリア晩年、慌ただしい道筋をたどったナザロフだったが、その第2の人生は順風満帆だ。2007年には国会議員に選出され、現在もボクシング連盟副会長の要職にある。プロボクシングの世界ではその実力相応の評価と人気を獲得できなかったかもしれないが、その後の幸福をもたらしたのもボクシングであったことは間違いない事実である。

Profile
Orzubek Nazarov●1966年8月30日生まれ。

当時、ソビエト連邦内だったキルギス共和国カント出身。10歳でボクシングを始める。五輪出場は逸したが、ソビエト選手権実質4連覇などバリバリのトップアマチュアだった。23歳のときにソ連から日本に派遣されるペレストロイカ・ボクシングチームに選抜されて来日。協栄ジムに所属し、不敗のまま日本、東洋太平洋のライト級王座を獲得。1993年にディンガン・トベラ(南アフリカ)を破ってWBA世界同級チャンピオンに。1997年にフランスのプロモーションに移籍。翌98年、ジャン・バティスト・メンディ(フランス)に敗れて6度守ったタイトルを失い、同時に引退を決意した。プロデビュー当時のリングネームはグッシー・ナザロフ。左のボクサーファイター。27戦26勝(19KO)1敗。

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