Jリーグ懐かしの助っ人外国人選手たち
【第15回】カレッカ
柏レイソル

 Jリーグ30数年の歩みは、「助っ人外国人」の歴史でもある。ある者はプロフェッショナリズムの伝道者として、ある者はタイトル獲得のキーマンとして、またある者は観衆を魅了するアーティストとして、Jリーグの競技力向上とサッカー文化の浸透に寄与した。

Jリーグの歴史に刻印された外国人選手を、1993年の開幕当時から取材を続けている戸塚啓氏が紹介する。

 第15回はカレッカを紹介する。1986年と1990年のワールドカップでブラジルの背番号9を背負った男は、Jリーグ昇格前の柏レイソルに加入。日本人選手に、フロントスタッフに、プロフェッショナリズムを惜しみなく注入した。

 Jリーグでの登録名は「カレカ」だった。だが、ブラジル代表やセリエAのナポリでの活躍を知る者としては、「カレッカ」と表記したくなるのだ。

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30年前にブラジル代表のカレッカが語った日本サッカーの未来「...の画像はこちら >>
 日本にやってきたのは1993年である。Jリーグ開幕初年度の来日だが、戦いの舞台はJリーグではない。JFLだった。しかも、新天地となる柏レイソルは、J1昇格圏から脱落していた。

「1993年夏でナポリとの契約が満了になって、ブラジルへ帰国しようかと思っていたところで、レイソルの監督だったゼ・セルジオから誘われたんだ。彼はサンパウロで一緒にやっていて、信頼できる存在だった」

 日本デビューは9月11日のリーグカップだった。

ホームの日立柏総合グラウンドで行なわれた土曜日のナイトゲームは、14,380人の観衆で膨れ上がった。馴染み深い「9」ではなく「10」を着けたカレッカが、観衆の視線をクギづけにした。

 Jリーグのガンバ大阪を迎えたレイソルは、相手の3倍にあたる15本のシュートを浴びせた。しかし、試合は0-1で終わる。

「期待していた結果は残せなかったが、チーム全体でいいプレーができたことはうれしい。試合を見てもらえれば、我々がJリーグのチームに何も劣っていないことが確信できた」

 試合後のカレッカは、満足そうに話した。

【右ひざに不安を抱えながら】

 その言葉を裏づけるように、3日後のサンフレッチェ広島戦では2ゴールを叩き出す。チームも4-3で勝利した。カレッカは「とても感激したよ。(ブラジルから見て)地球の裏側から日本に来ているのは、チームの勝利につながるゴールを決めるためだからね」と笑顔を浮かべた。

 1994年はシーズン開幕から稼働し、Jリーグ昇格を賭けた争いの先頭に立つ。Jリーグ入りの資格を有するのはレイソル、セレッソ大阪、PJMフューチャーズ、京都パープルサンガで、昇格争いはこの4チームを中心に繰り広げられていく。カレッカはチームトップの19ゴールを挙げ、ゴール前のこぼれ球に鋭く反応した19点目がJリーグ昇格を決める一撃となった。

 待ち望んだJリーグのピッチに立った1995年のシーズンは、ケガとともに始まった。シーズン前に右ひざを痛めたのである。1960年10月生まれのカレッカは、すでに34歳である。タッチラインの外側で過ごす時間が、少しずつ長くなっていた。

 それでも、カレッカは正真正銘のスーパースターである。レイソルにとってJリーグ初の日立台でのホームゲームとなった1995年3月29日の横浜フリューゲルス戦で、Jリーグ初出場を飾るのだ。

 フリューゲルスのスタメンには、1994年アメリカワールドカップで優勝したブラジル代表メンバーのジーニョ、セザール・サンパイオ、エバイールが名を連ねていたが、レイソルが2-1で勝利する。1995年加入の同胞ミューレルが2ゴールをマークした。

 自身の初ゴールは4月5日の名古屋グランパスエイト戦だ。PKスポットあたりで浮き球のパスを受け、胸トラップで一度ピッチへ落とす。GKが飛び出してきたタイミングでふわりとボールを浮かし、鮮やかに入れ替わる。誰もいないゴールへ、浮き球をヘディングで優雅に流し込んだのだった。

 1995年はリーグ戦52試合のうち、30試合でピッチに立った。「週2試合の日程は、コンディションを維持するのが難しい。同点の場合は延長戦とPK戦があるのも、観客にとっては面白いかもしれないけれど、選手にはタフだね」と話していた。Jリーグの完全決着方式は、右ひざに不安を抱えるカレッカには厳しいものだったに違いない。

【外国人の重要性を一貫して熱弁】

 翌1996年は、リーグ戦出場がわずか5試合に止まった。CBのアントニオ・カルロス、ストライカーのエジウソンが攻守の軸として機能するなかで、カレッカはケガの治療とリハビリに多くの時間を割かれた。このシーズンを最後に、日本を離れることとなる。

 レイソルに所属した1993年から1996年の間に、何度か1対1で話を聞いたことがある。サッカー専門誌の記者だったからこその僥倖(ぎょうこう)で、時には1時間近く取材時間をもらった。

 カレッカが一貫して語っていたのは、外国人選手と外国人指導者の重要性だった。「日本人がダメだとか、悪いと言うつもりは一切ないんだ」と断りを入れてから、熱っぽく語るのだった。

「Jリーグはまだできたばかりだから、南米やヨーロッパから学ぶべきところがあると思う。日本のサッカーが必要としているのは、サッカーのプロだ。

実績を持った指導者、経験豊富なベテラン、フィジコ、トレーナー、それにホペイロだって必要だ。

 私がレイソルにやってきた時、選手は練習着を自分で洗濯していた。それではダメだということで、ブラジル人のホペイロと契約してもらったんだ」

 古くて新しい問題にも切り込んでいる。レフェリーだ。

「審判のレベルを上げていくことは、ゲームの質を追求することにつながる。それについては、週2回の日程も関わってくる。疲労が溜まると、選手は反応スピードが遅くなるので、どうしてもファウルが多くなる。それでは、ゲームの質は上がらない。

 相手の攻撃をファウルで止めるのではなく、激しく競り合う。審判はそこにファウルがあるのかどうかを見極める。そうなれば、審判のレベルは上がるし、選手もたくましくなるはずだ」

 日本人の潜在能力については、高く評価していた。「レイソルには、ブラジルでやっていけるレベルの選手がいる」と話した。

「リップサービスではないよ」と言い添えて。

【日本人選手はすごく真面目】

 ただ、と言う。ここからが核心だ。

「日本人選手に課題があるとしたら、それは精神的なものだ。ピッチに立ったら、1分たりとも気を抜いてはいけない。相手より1点でも多く得点することに集中しなければいけない」

 ここでまた、彼は話を切った。今度は「まあでも」と、言葉をつなぐ。柔和な表情が浮かぶ。

「Jリーグはまだ、できたばかりだ。慌ててはいけない。日本人選手はすごく真面目で、教えられたことをどんどん吸収していく。自分が来日してからも、日本サッカーはレベルアップしている。

そう遠くない未来に、ワールドカップで活躍する日本代表が見られるはずだ。私はそう信じているよ」

 30年以上前の言葉を伝えたら、カレッカはどんな反応を見せるだろう。「ほら、言ったとおりだろう」と自慢げに話すかもしれないし、「いやあ、自分の想像以上のスピードで日本サッカーは進化したね」と喜んでくれるかもしれない。

 いずれにしても、彼はこちらに微笑みを向けてくれるだろう。プロリーグ黎明期の日本にやってきた外国人選手、とりわけカレッカほどの経歴を持った選手は、Jリーグの発展に対してはっきりとした責任を自覚していたからだ。

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