【平成の名力士列伝:若荒雄】ひたむきさと愚直な相撲で見る者の...の画像はこちら >>

連載・平成の名力士列伝60:若荒雄

平成とともに訪れた空前の大相撲ブーム。新たな時代を感じさせる個性あふれる力士たちの勇姿は、連綿と時代をつなぎ、今もなお多くの人々の記憶に残っている。

そんな平成を代表する力士を振り返る連載。今回は、引きや叩きの決まり手が多かったもののひたむきな相撲で高い評価を受けた若荒雄を紹介する。

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【初の横綱、大関総当たりの場所でもらしさ全開】

 いつの時代でも引きや叩きは批判の対象となり、褒められることはまずないが、そんな批評もこの力士には、ちょっと当てはまらないのではないか。決まり手は叩き込みでもそこに至るまでの相撲ぶりにこそ、ファンの心に訴えかける何かがあったからだ。

 素質に恵まれていたわけでもなく、突出した技量があったわけでもない。それでも15歳で角界に身を投じ、ひたむきに相撲に打ち込んできた若荒雄は三役にも上り詰め、現役晩年は体がボロボロになりながらも愚直に土俵を務め上げ、15年半の土俵人生を全うした。

 千葉県船橋市で生まれ、1歳のときに父親を交通事故で亡くし、小学生時代は働く母親に代わって母方の祖父母に育てられた。親戚の家の近所に阿武松部屋があったという縁で、毎週土曜に行なわれる「キッズ阿武松」に参加し、現役力士の胸も借りた。

 中3の冬休みからは部屋に住み込み、平成11(1999)年3月場所、15歳で同部屋から本名の八木ヶ谷として初土俵を踏んだ。18歳で幕下に昇進し、左足首の骨折で2場所連続全休などもあり、しばらくは幕下と三段目の往復に終始するが、平成18(2006)年3月場所以降は幕下に定着すると平成20(2008)年1月場所、23歳で新十両に昇進した。

 関取となっても十両と幕下を3度も行き来しながら、平成21(2009)年7月場所で新入幕。1場所で十両に陥落し、5場所ぶりに幕内に復帰した場所は10勝をマーク。上り調子で上位に進出するかと思われた矢先、野球賭博騒動に関与して謹慎休場で再び十両へ。

 平成23(2011)年1月場所、3度目の入幕を果たすと持ち前の突き押しも開花するようになった。

 自己最高位の前頭3枚目に躍進した同年7月場所は初日から4連敗で"家賃が高い"と思われたが、5日目は大関・琴欧洲をもろ手で突き起こすと、相手の引きに乗じて一気に押し出し。初の大関戦で殊勲の星を挙げ「今まで不甲斐ない相撲が多かったんで、立ち合いだけしっかり当たろうと思った」と大きく頷いた。

 翌日も連勝で迎えた7日目の白鵬戦は、若荒雄がもろ手突きから果敢に突っ張っては左からいなしたがうまくかわされ、最後は叩き込まれた。横綱初挑戦、しかも相手は全盛期の白鵬だったが、胸を借りるつもりは微塵もなかった。「勝たなければ意味がない」。倒すつもりで挑んだからこそ、土俵に這った両手で砂を思いきり払い、悔しさを露わにした。

 9日目には魁皇を引き落としで仕留め、この場所は2大関を撃破しながら5勝10敗。大敗に終わったが、初の横綱、大関総当たりの場所で、らしさ全開の相撲を取り切った。

【「素質以上」を引き出させた相撲へのひたむきさ】

 現役時代に最も脚光を浴びたのは、前頭9枚目で迎えた同年11月場所だった。もろ手突きで相手の出足を止めると突っ張って絶妙なタイミングで引くという得意な形がこの場所は冴え渡り、相手もわかっていながら食ってしまう"必勝パターン"にまでなっていた。10日目の栃煌山戦は引いて相手のバランスを崩すと押し出して平幕第1号の勝ち越し。

勝ちっぱなしの横綱・白鵬を追いかけ、優勝戦線にも食らいついた。

 千秋楽の碧山戦は勝てば敢闘賞の条件がつき、引き落として12勝目。生涯唯一の三賞を受賞すると「獲りたいと思っていたけど、自分は技術、才能、素質のない、その日の相撲に勝ったり負けたりの力士なんで、ちょっとびっくりです」と感慨深げに語った。12勝のうち、引き落としと叩き込みが7番と半数以上を占めたが、若荒雄の相撲は常に全力を出しきる、正々堂々の敢闘精神にあふれるものだった。

 翌24年1月場所は番付運にも恵まれ、一気に新小結に昇進。誰が相手であろうと持ち前の"全力相撲"は変わらなかったが、5勝10敗に終わり、1場所で三役の座を明け渡すと、その後の番付はじり貧。同年11月場所を最後に幕内から陥落すると返り咲くことなく、十両暮らしが続いた。

 肩や腰、踵など、全身ボロボロになりながらも、そんな様子はいっさい見せずに土俵を務めたが、平成26(2014)年7月場所はついに幕下に転落。負け越せば引退を覚悟して臨んだこの場所は、3勝3敗で迎えた最後の相撲で十両・栃飛龍との入れ替え戦を制して勝ち越し。十両復帰を決めたこの一番を現役生活で最も思い出に残る一番に選んだのも、真摯に相撲に打ち込んできたこの男らしい。

 関取に返り咲いたものの、体はすでにボロボロで得意の引き技も決まらなくなっていた。この場所も幕下に陥落する成績なら土俵を去ると心に決め、背水の陣で臨み、5勝8敗となったところで引退を表明。

「自分の素質以上のものを出させてもらえて、悔いのない現役生活だったと思っています」と濃密な力士人生を締めくくった。

「多くの攻め手や機敏な反射神経があるわけでもなく、引き技が多かったけど、よく小結まで上がった。本人の努力と周りの支えがあって掴んだ三役だった」

 滅多に弟子のことを褒めなかった師匠(元関脇・益荒雄)の、この労いの言葉こそ、若荒雄という力士の生きざまを端的に表わしていた。

【Profile】
若荒雄匡也(わかこうゆう・まさや)/昭和59(1984)年2月24日生まれ、千葉県船橋市出身/本名:八木ヶ谷匡也/所属:阿武松部屋/しこ名履歴:八木ヶ谷→若荒雄/初土俵:平成11(1999)年3月場所/引退場所:平成26(2014)年9月場所/最高位:小結

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