【新連載】Jリーグ語り草(3)
福西崇史の2002年
「史上最強チームはいかにして生まれたか」前編

 史上初の完全優勝を成し遂げた2002年のジュビロ磐田は、「Jリーグの歴史で最も強かったチーム」のひとつとして、今でも多くのファンの記憶に残っている。

 なぜ、磐田は勝ち続けられたのか──。

 当時のチームで主力を担った福西崇史が、「最強」へとたどり着いた進化の舞台裏を明かす。そこにはライバルの存在と、悪夢のような2001年の屈辱があった......。

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 ジュビロ磐田は1997年に初優勝を飾り、1999年にも2度目の優勝を成し遂げましたが、ヨーロッパ人の監督を迎えた2000年は無冠に終わりました。

 その年の途中から鈴木政一監督が指揮を執るようになり、2001年はもう一度、自分たちの形を作ろうということで、このシーズンに臨みました。

 2001年は「タイトル奪還」というテーマもありましたが、もうひとつのターゲットが「FIFAクラブ世界選手権」でした。今で言うクラブワールドカップで、レアル・マドリードに勝つことが僕たちの最大の目標でした。

 そのために生まれたのが、のちに「N-BOX」と呼ばれる独自のシステムです。

 このN-BOXは形としては「3-5-2」ですが、中盤がボックス型で、ウイングバックはいません。サッカーではサイドを崩すのが定石ですから、サイドに人を配置しない形はかなり特殊でした。

 うしろの2枚がハット(服部年宏)と僕で、前の左に(藤田)俊哉さん、右に奥大介。そしてその四角形の真ん中に名波(浩)さんを配置するという形です。奥のところに西(紀寛)が入る時もありましたが、西はどちらかというとサイドに開いてしまうので、ボックスではなくなってしまうんですよ。

 N-BOXはやっぱり「サイコロの5の目」のような配置じゃないといけない。そこにはこだわりがありましたね。

 基本的に中盤の動きは即興でした。

 たとえば、名波さんが外に出たら、俊哉さんが真ん中に入る。でも、俊哉さんは前に出たがるから、その場合には僕が中を埋めにいったりして。名波さんが中心であるのは確かですが、ほかの選手が名波さんの動きに合わせるのではなく、あくまでボールが中心なんですよ。ボールがあるところによって、立ち位置がどんどんと変わっていくんです。

 右サイドが空いていれば、ひとりが開くのではなく、みんなで右サイドにポジションをずらしていく。ひとりでサイドを突破して、そこからクロスを上げるような形は、ほとんどありませんでした。5の目の形を保ってボールを回しながら、どうやって崩していくかを常に考えていましたね。

【ショックで誰もしゃべらなかった】

 キャンプの時に「この形でいく」とマサくん(鈴木監督)に言われた時には、正直驚きました。

 実際に形を作っていくなかで、なかなかうまくいかないので「もうやめよう」と話し合ったこともあります。でも、マサくんは頑(かたく)なだったので、ひとまずこのまま開幕を迎え、シーズン中にマイナーチェンジしていけばいいと思っていました。

 おそらく序盤で結果が出なかったら、早々にあきらめていたと思います。でも、開幕戦でジェフユナイテッド市原(現・ジェフユナイッテッド千葉)に4-1と快勝し、そのまま8連勝を達成したんですよ。最初は選手たちも首を傾げながらやっていたんですが、結果を出していくことによって、自信というものが芽生えていったと思います。

 結局、ファーストステージはわずか1敗で優勝して、セカンドステージに入っても初戦でガンバ大阪に負けて以降は、連勝を続けました。

 これまで僕らはJリーグで2回優勝していたので、この年は「世界で勝つ」というモチベーションの下でプレーしていました。Jリーグで勝つことは当たり前で、その先を見ていたんですよ。

 半信半疑でスタートしましたが、こうやって結果を残すことができた。このままの状態であれば、世界でも戦えるという自信もありました。だから、運営会社の倒産によりクラブ世界選手権が中止になったのは、本当にショックでしたね。

 たしかそのニュースを聞いたのは、コンサドーレ札幌(現・北海道コンサドーレ札幌)戦の前のミーティングの時だったと記憶しています。みんなショックで誰もしゃべらない。ミーティングもやめて、スタジアムに行って、それでも試合には勝ちましたが、喜ぶ選手はほとんどいなかったと思います。

 そのために準備をして、新しいことに取り組んできたのに、今までやってきたことはなんだったのかって。ただ、モチベーションを失ってしまいましたけど、プロである以上はやらなきゃいけない。何とか気持ちを切り替えました。しかし結局、あの年はセカンドステージで2位になり、チャンピオンシップで鹿島アントラーズに負けて、タイトルを獲ることができませんでした。

【「中山雅史vs秋田豊」の構図】

 磐田の歴史を振り返ると、1994年にJリーグに参入して以降、右肩上がりに成長を遂げていきました。中山(雅史)さんという象徴がいて、俊哉さんがいて、ハットがいて、僕は名波さんと一緒に1995年に加入して、その頃からほとんど同じメンバーで戦うなかで、毎年、毎年、積み上げというものができていったと思います。

 監督もハンス・オフトから始まり、戦術的なことを学びながら、ルイス・フェリペ・スコラーリやほかのブラジル人監督からは勝負へのこだわりを教えてもらいました。そういう流れで迎えた2001年は、まさに集大成の年だったと思います。でも、結果的に鹿島には勝てなかった。その現実は重かったですね。

 当時の磐田にとって、鹿島は絶対的なライバルでした。とにかく勝利へのこだわりというものを一番感じるチームでしたね。

 そのチームに屈しないためには、どうすればいいのか──。

常にそのことばかりを考えていたので、鹿島戦の前はミーティングなんかしなかったですよ。彼らがどういうチームかわかっているから、言うまでもないと。それくらい意識していた相手です。

 ボランチの僕は、小笠原満男や本山雅志を抑えるために激しくいきましたし、本田(泰人)さんは怖かったけど、負けるわけにはいかないので、バチバチとやり合いました。

 磐田と鹿島と言えば、「中山雅史さん対秋田豊さん」という構図もありました。あのふたりのやり合いはチームの士気にも関わってくるので、どうにか勝ってほしかったですし、勝負どころではあえて、そこを使いましたね。もう気持ちと気持ちのぶつかり合いで、一番象徴的な戦いだったと思います。

 ああいった個人と個人の熱いバトルは、今ではほとんど見られなくなりました。戦術同士の争いになっているので、そこの部分の面白みを感じられなくなったのは、個人的には残念なこと。ベテランの人たちがバチバチとやり合っている姿は僕も好きだったし、やっているほうも楽しかったですから。

【まだ何かが足りていなかった】

 やっぱり鹿島は特別な存在でしたし、やられてしまったイメージも強くあります。ただ2001年に関しては、シーズン中も2回やって両方とも勝っていましたし、年間の勝ち点でも20ポイント近く差をつけていましたから、自分たちが上回っているという自負がありました。

 それでも結局、チャンピオンシップで負けてしまった。どんなに過程がよくても、最後に結果を出さなくては意味がないんですよ。つまり、あの時の僕らは、まだまだ何かが足りていなかったということ。

 じゃあ、どうすればいいのかと言えば、ファーストも、セカンドも、両方獲ればいいだろって。だから2001年に味わった屈辱が、2002年の完全優勝の原動力になったことは間違いありません。

(つづく)

◆福西崇史・中編>>「2002年の高原直泰は覚醒していた」


【profile】
福西崇史(ふくにし・たかし)
1976年9月1日生まれ、愛媛県新居浜市出身。1995年に新居浜工高からジュビロ磐田に入団。ハンス・オフト監督の勧めでFWからボランチにコンバートする。激しいプレーで磐田の黄金期を支え、Jリーグベストイレブンを4度受賞。2006年限りで磐田を退団し、FC東京東京ヴェルディを経由して2008年に引退。その後は指導者・解説者として活躍しつつ、2018年には南葛SCで現役復帰し、翌年は監督も務めた。日本代表として2002年・2006年のワールドカップに出場。

国際Aマッチ通算64試合出場7得点。ポジション=MF。身長181cm、体重77kg。

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