【新連載】Jリーグ語り草(3)
福西崇史の2002年
「史上最強チームはいかにして生まれたか」中編

◆福西崇史・前編>>「鹿島に負けた屈辱が原動力になった」

 2001年の悔しさをバネに、開幕から勝ち続けた2002年のジュビロ磐田は、目論見どおりにファーストステージを制覇。前人未到の完全優勝に大きく近づくことになった。

 しかし、試合内容を精査すれば「ギリギリの戦いの連続だった」と福西崇史は振り返る。

 なぜ磐田は、苦しみながらも勝負強さを示し、セカンドステージでも結果を出し続けたられたのか。チームを導いたのは不運を味わった若きエースだった。

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 2001年の戦いのベースとなった「N-BOX」は、実はシーズン途中に名波(浩)さんが負傷離脱したことで、封印されたんですよ。2002年には奥大介も移籍したので、理想とする形は事実上解体されました。その意味でN-BOXは短命でしたが、あとにも語り継がれていることを考えれば、伝説のフォーメーションだったのかもしれません。

 だから2002年は、ウイングバックを配置するごくノーマルな3-5-2に戻っていました。N-BOXで理想を追求するサッカーではなく、より結果にこだわったサッカーに変わっていったんです。

 前年の悔しさを晴らすべく、2002年は開幕から連勝街道を突き進みました。ただ、7節の横浜F・マリノス戦に敗れたことで、2位でワールドカップ中断期間に突入することになりました。

 ファーストステージで優勝を争ったのはマリノスでしたが、やっぱり意識していたのは鹿島アントラーズでしたね。マリノスを上回ることは、僕のなかでは想定できた。

でも、鹿島にはそのイメージがなかなか湧かないんですよ。その時点で鹿島の順位は下でしたけど、あのチームの底力を考えると、安心することはできなかったです。

 前年の屈辱を晴らしたいという思いがあった一方で、個人的にはワールドカップという目標もありました。メンバーに入れるか、入れないかのぎりぎりの立場だったので、まずはJリーグでいいパフォーマンスをするために準備をしましたし、コンディション面にも相当、気を配りました。

【2001年のほうが相手を圧倒できた】

 メンバーに選ばれたことはうれしかったですよ。ピッチに立てたのは1試合だけでしたけど、ワールドカップに出たことで世界との距離感をリアルに感じられるようになったし、チームに帰ってきてからも意識高く取り組みました。その意味では準備からも含め、あの年にワールドカップがあったことは、自身のパフォーマンスをよりよいものにしてくれたと思います。

 ワールドカップ中断明け後も、僕らは結果を出し続けました。ファーストステージで印象に残っているのは12節のガンバ大阪戦です。常に先手を取られながらも都度追いつき、一時は2-4と引き離されながら、終盤の2ゴールで延長戦に持ち込み、延長前半の西(紀寛)のVゴールで5-4と勝ちきった試合です。

 あの年の僕たちは、延長戦になったら勝てるという自信がありました。ボールを回せる力があったので、相手は時間が経つにつれて体力が削られていくんです。後半に入ると落ちてくるので、そこでとどめを刺せればいいのですが、同点のまま終わってもVゴールで勝てるだろうと。

実際にあのシーズンは延長戦で8勝1分と、かなり高い勝率を記録することができました。

 ファーストステージは結局、最後までマリノスと争いましたが、最終節で柏レイソルに勝って優勝できた時は、ホッとした気持ちが強かったですね。「両方獲る」という思いで臨んだなかで、まずは第1段階をクリアできた感覚でした。

 ただし、余裕はなかったです。振り返るとステージの半分近くが1点差の勝利でしたから。最後の柏戦も終了間際に高原(直泰)が決めてくれて、何とか勝つことができました。仮に引き分けていれば、マリノスに逆転を許していたかもしれない。だから、「2002年の磐田は本当に強かったですね」とよく言われるんですけど、個人的にはそういった感覚はないんですよ。

 むしろ2001年のほうが相手を圧倒できた試合が多かったし、やっていても楽しかった。結果重視の現実的なサッカーに傾倒するなかで、内容的によくない試合も少なくありませんでした。ただ、結果を求めて、実際に勝ちきることができた。その意味では勝負強さはあったと思います。

【高原はみんなの前で泣いていた】

 ファーストステージを制しても、僕たちに慢心はありませんでした。完全優勝を目標に掲げるなかで、まだ半分が終わったにすぎない。集中力もモチベーションも高く、新たなステージに入ることができました。

 ただ初戦のヴィッセル神戸戦、2節の鹿島戦をモノにして連勝スタートができたのですが、3節で浦和レッズに負けてしまったんです。そこから4連勝と巻き返しましたが、8節のジェフユナイテッド市原(現・ジェフユナイテッド千葉)戦では崔龍洙(チェ・ヨンス)に2点を決められて、早くも2敗目を喫してしまいました。

 ギリギリの勝負を制してきたファーストステージのような戦いを、うまく表現できない試合もありました。ファーストステージよりも絡(もつ)れる展開が多かったですね。勢いに乗る浦和の後塵を拝し、磐田は2位に留まっていました。

 でも、ジェフに屈したのを最後に、僕たちは負けることはありませんでした。頼りになったのは高原です。

 この年の彼は、覚醒していましたね。ワールドカップメンバーからの落選が、その原動力になったのではないでしょうか。大会直前の離脱は相当ショックだったでしょうし、まだ若かったですからね。

みんなの前で泣いていたのを覚えています。

 僕にとってもチームメイトの高原の存在は大きかったので、彼がいなくなるのはつらかったですよ。人一倍、努力してきたことも知っていますから、高原の想いも背負ってやっていこうと決意しました。

 戦列に戻ってきてからの高原のたくましさは、尋常ではなかったですね。ファーストステージの後半に復帰して、すごいペースでゴールを量産し、セカンドステージも勢いは止まりませんでした。1試合で4点取ったこともありましたね。シーズン終盤も勢いは衰えず、大事な場面で取ってくれる頼もしさがありました。

 そんな高原を輝かせた中山(雅史)さんの存在も見逃せません。高原のゴールをかなりアシストしていたと思います。中山さんの献身的な動きがあってこそ、高原とのコンビネーションが築かれたのは間違いありません。ツートップの関係性が「1+1」を「2」ではなく、「3」にも「4」にもしてくれることを、このふたりの連係を見て、初めて感じることができたくらいです。

【キャリア唯一のドリブルシュート】

 このふたりに導かれるように、この年は僕も点を取ることができました。

ツートップが裏に抜けて、ディフェンスをうしろに連れていってくれるので、中盤から前に上がりやすくなるんですよ。だから点を取る意識も高まりましたし、かなりやりやすかったですね。

 セカンドステージの優勝を決めた14節の東京ヴェルディ1969(現・東京ヴェルディ)戦でも、僕はVゴールを決めることができました。引き分けでも優勝だったんですけど、勝利へのこだわりは捨てられませんでした。

 延長に入った時点でチームとしては負けなければいいので、無理にVゴールを取りにいく必要はなかったんです。だけど、僕はどうしても勝って決めたかったので、怒られながらも前に残って点を狙ったんです。

 残り1分くらいだったので引き分けも覚悟しましたが、左サイドで金沢浄が相手のクリアボールをがんばってブロックしてくれて、そのこぼれ球が前に上がっていた僕の目の前に落ちたんですよ。それを拾ってそのままドリブルで切れ込んで、右足を振り抜きました。

 おそらくドリブルシュートを決めたのは、これがキャリアのなかで唯一だったと思います。それがあの大事な場面で出たのは、運命的だったかもしれません。

 やっぱりあの年は、ファーストもセカンドも両方獲ると決めていましたから、とにかく結果がほしかった。優勝に対する想いの強さがもたらしてくれたゴールだったと思います。

(つづく)

◆福西崇史・後編>>「N-BOXで戦った2001年が一番強かった」


【profile】
福西崇史(ふくにし・たかし)
1976年9月1日生まれ、愛媛県新居浜市出身。1995年に新居浜工高からジュビロ磐田に入団。ハンス・オフト監督の勧めでFWからボランチにコンバートする。激しいプレーで磐田の黄金期を支え、Jリーグベストイレブンを4度受賞。2006年限りで磐田を退団し、FC東京→東京ヴェルディを経由して2008年に引退。その後は指導者・解説者として活躍しつつ、2018年には南葛SCで現役復帰し、翌年は監督も務めた。日本代表として2002年・2006年のワールドカップに出場。国際Aマッチ通算64試合出場7得点。ポジション=MF。身長181cm、体重77kg。

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