阪神ドラフト1位・立石正広の原点(後編)

 今秋ドラフトの目玉選手で、阪神、広島、日本ハムの3球団競合の末、阪神が交渉権を引き当てた立石正広(創価大)は、山口県で生まれ育ち、高川学園中(高川学園シニア)、高川学園高で6年間を過ごした。

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甲子園で特大の一発】

 西岡大輔部長、松本祐一郎監督は、中学からその成長を見守り続け、高校3年になる頃にはプロも注目する右の強打者となっていた。

 松本監督は、立石の「勝負強さ」にすごみを感じたという。

「中学の最初の頃は下位打線でしたが、早熟の子たちよりも勝負強く、試合で生きる子でしたので、使えば使うほど上位打線に上がっていきました。高校でも一番打ってほしい場面や大会で打ってくれるので、そういうものを持って生まれた子だったんでしょう。主要な大会でちゃんと活躍するということは、プレーヤーとしてすごく大切なことです。3年夏の最後の大会、そして甲子園で彼がどういう結果を出すのか、楽しみではありました」

 ここ一番での集中力は、指導者の想像の域をはるかに超えていた。3年夏の山口大会、宇部鴻城との決勝で、初回に先制打を放つと、3対1の5回には左翼へ公式戦初本塁打となる2ラン。2安打3打点の活躍で、5年ぶり2度目となる夏の甲子園出場に大きく貢献した。

 そして甲子園では、1回戦の小松大谷(石川)戦で、0対5の4回、バックスクリーンへ反撃の呼び水となる特大の2ランを放つなど2安打3打点。最後は7対6で逆転サヨナラ勝ちを飾り、同校に甲子園初白星をもたらした。大一番、そして大舞台での2戦連発に、松本監督は上のステージでの活躍を確信した。

「山口大会決勝、そして甲子園と必死にやったなかで本塁打を打つというところに、ちゃんと段階を踏んで順調に成長しているなという感じはしました。彼は頑張る素質も持ち合わせていましたので、あとは大学でどう伸びるかという思いでした」

 高校通算10本塁打、公式戦2本塁打と、数字だけ見れば並み居る強打者たちに見劣りするかもしれない。ただ、元バレーボール選手の両親譲りの手足の長さを生かしたフォロースルーから放たれる打球の飛距離は、他の追随を許さないほどすさまじかった。

【幻に終わった宗山塁との三遊間コンビ】

 ある日の紅白戦では、中堅まで115メートルある専用グラウンドのバックスクリーンを超えていったという。

 西岡部長は、「あのバックスクリーンを超えたのは、今まででひとりかふたりしかいません」と、興奮気味に振り返る。

「バックスクリーンのスピードガン表示の上にぶち当てたこともあります。当時完成したばかりの電光掲示板が壊れるのではないかと心配しました(笑)。あんなところまで飛ばす選手はいないだろうと思っていましたが、その飛距離が本当にすごかったですね」

 東京六大学の名門でも、その豪快な打撃は見劣りしなかった。高校2年冬に参加した明治大の練習会で、大学生にも負けない飛距離で柵越えを連発。当時の指導者たちの度肝を抜いた。

 ただ、スポーツ推薦枠の関係で返事待ちの状態がつづく間に、熱心に誘ってくれた創価大への進学を決断した。もし明治大に進学していれば、一学年上の宗山塁(楽天)との三遊間コンビが実現していたかもしれない。

「甲子園で本塁打を打った時にはもう創価大に行くことを決めていました。コロナ禍でなかったら、もう少しプロのスカウトの方々が見に来てくれたと思うので、高卒でプロの話もあったかもしれませんが、大学に行って正解ではなかったでしょうか」

 立石は高川学園での6年間で、指導者が期待する以上の成長を遂げ、故郷の山口から巣立っていった。その成長曲線は、創価大入学後に、さらなる上昇カーブを描いていくことになる。

 松本監督は「プロが見えてきたなと思ったのは大学2年の時ぐらいでしょうか」と振り返る。

「オフで山口に帰ってくるたびに体が大きくなっていました。バットを振れば、これはプロだなという打球を放つんです。高校でこれを求めていたら、もしかしたら壊れていたかもしれません。山野(太一、ヤクルト)と椋木(蓮、オリックス)も中学から見ていて、彼らは投手気質なのか、本当に手がかかりましたが、立石は逆に今の中学生や高校生たちに『頑張ればこういう選手になれるんだよ』という教材にしたいぐらいです」

【大学でも光った無類の勝負強さ】

 中学、高校時代と同じく、大学でも大舞台で無類の勝負強さを見せた。東京新大学リーグでは2年春に打率.500、5本塁打、14打点で3冠王に輝くなど、4年間で本塁打王を3度、打点王を3度、首位打者を2度獲得し、4度のリーグ優勝を経験。3年秋の神宮大会では歴代最多の10安打を放ち、打率.667、2本塁打、6打点で準優勝に貢献した。初戦の佛教大戦では右越え、準決勝の環太平洋大戦では左越えと、広角に長打が打てるのも魅力だ。

「大きな大会で結果が必要だなと思ったら、ちゃんと3年秋の神宮で出すことができたので、それがプロに近づくことができた大きな要因になったと思います。中学時代は高校に山野と椋木がいて、大学では3学年上の門脇誠選手(巨人)と同部屋だったということも、彼にとってはビジョンを立てやすかったんじゃないでしょうか」

 野手のプロ入りは、前身の多々良学園時代の高木豊(中央大→大洋ドラフト3位)以来2人目。高川学園となってからは初となる。松本監督は、「1日でも1秒でも長くプロの世界でやってほしい」と期待を込める。

「校名が変わって初めての野手のプロなので、レギュラーになれば毎日試合がありますから、ケガをせずに試合に出続けてほしいです。

1年目からバンバン活躍できるほど甘い世界ではないでしょうが、それが願いですね」

 来年のオフ。プロ1年目を終え帰省した愛弟子がどんな変化を遂げ、どんな戦果を報告してくれるのか。その時を楽しみにしながら、「立石2世」の育成に全力を注ぐ。

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