連載第73回
サッカー観戦7500試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」
現場観戦7500試合を達成したベテランサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。
今年のJ1で優勝争いを繰り広げている柏レイソル。
【ポゼッションスタイルで優勝争い】
J1リーグが最終盤を迎えている。第35節では、首位の鹿島アントラーズを追う柏レイソルが横浜FC戦で思わぬ苦戦を強いられた。
前半からポゼッションで圧倒的な優位に立った柏だが、割りきって中央を固める横浜FCの守備をなかなか崩しきることができなかった。そんななかで後半に入り72分に先制点を引き出したのは、交代で入ったばかりの山田雄士のミドルシュート。ゴール前を固める相手には遠目からのシュートが有効なのは想像がつくが、30メートル近くからコースを狙ったシュートは見事だった。味方DFがブラインドとなったせいか、GKヤクブ・スウォビィクの反応も遅れて山田のシュートは見事に左下隅に決まった(僕はカタールW杯のメキシコ戦でリオネル・メッシが決めたシュートを思い出した)。
1点を先行した柏は、横浜FCが攻めに出た裏を取ってカウンターから追加点。小泉佳穂がドリブルで持ち込み、右の山之内佑成がコースを狙ったシュートをGKが弾いたところに仲間が走り込んで2点目を決めた。
柏はこの勝利で首位鹿島との勝点差を1に詰めた。
昨年の柏は守備重視でなんとかJ1残留に成功したのだが、わずか1年でプレースタイルはまったく変わった。選手たちがポジションを変えながらパスを回す組織的なサッカー。
【レイソルの前身「日立製作所」】
柏の前身は日立製作所である。
日本サッカーリーグ(JSL)時代には同じく東京・丸の内に本社を置く三菱重工(現浦和レッズ)、古河電工(現ジェフユナイテッド千葉)と並んで「丸の内御三家」と称された。
旧「御三家」のなかで、JSL時代のカラーをいちばん濃く残しているのが柏である。
たとえば古河はJSL時代は青を基調とした落ち着いた色のユニフォームだったが、Jリーグ入りと同時にジェフユナイテッド市原となると、黄・緑・赤というアフリカかカリブ海を思わせるような色に変わった。また、それまで東京や横浜で戦うことが多かったのに千葉県に移転してしまった。
三菱がそれまでの「青」から「赤」に変更したのはJSL時代のことだったが、本拠地は縁もゆかりもなかった埼玉県浦和に移った。
それに対して、日立はJSL時代から黄色のユニフォームを使用していたし、JSL時代の1980年代後半から日立台を本拠地として使用していた。
なにしろ、日立台=日立柏サッカー場(三協フロンテア柏スタジアム)は日立製作所の所有地に造られたスタジアムであり、現在はクラブの所有となっている(クラブ自身がスタジアムを所有するのはJリーグでは柏だけ)。
鉄骨造りの仮設っぽいスタンドは、どこか昔のフットボールグラウンドの風情が漂っていて僕は大好きだ。
だから、オールドファンにとっては、柏レイソルを見ていると他のクラブ以上にJSL時代からの連続性が感じられて懐かしいのである。
【走る日立】
ただ、日立製作所サッカー部=柏レイソルのチームのスタイルは、他クラブ以上に変化に富んでいるような気がする(悪く言えば「一貫性がない」ということになる)。
日立製作所サッカー部は1939年に同好会として発足し、翌1940年に正式なサッカー部となったというから、実に長い歴史を持っている。
もうひとつ、茨城県日立市には「茨城日立」というチームがあり、こちらの創部はなんと1923年つまり大正時代のことだ。そして、1941年に早稲田大学を卒業した高橋英辰が入団し、当時の茨城日立は本社サッカー部を凌ぐ実力を持っていたのだという。
さすがに、これだけ古い話になると僕にとってもすべて伝聞でしかないのだが、かなり後にはなるが晩年の高橋氏(愛称「ロクさん」)には懇意にしていただき、いろいろ話を聞かせてもらった。皮肉な物言いが特徴的な高橋氏だが、洒脱でとても話が面白い人物だった。
高橋氏は1947年に本社に転属となり、本社サッカー部(茨城と区別するため、1970年まで「日立本社」と称していた)で選手として活躍する一方、早稲田大学監督としてもチームを優勝に導いている。
そして、高橋氏はローマ五輪予選敗退後の1960年に日本代表監督に就任したが、1962年にはデットマール・クラマーコーチの提言で若い長沼健と監督を交代。高橋氏本人は1964年の東京五輪を目指していたはずで、そのせいかサッカー界から一時的に身を引くことになった。
だが、JSL誕生後、古河や三菱の後塵を拝することになった日立本社再建のため、高橋氏は1969年に日立本社監督に就任。「走る日立」と称してチーム強化を進め、1972年にはJSLと天皇杯で優勝を遂げることに成功した。
【1970年代はスター選手が入団】
そういえば、「走る日立」の前には「雨の日立」という言葉もあった。
1965年にスタートしたJSL初年度は東洋工業(のちのマツダ、現サンフレッチェ広島)が12勝2分無敗で優勝。2年目も東洋工業は12勝1分1敗で連覇を飾ったのだが、この「1敗」は日立本社によるものだった。
それが、豪雨のなかのゲームだったのだ。
そして、その後も雨のなかの試合に強いというので「雨の日立」と言われたのだ。
「雨の日立」にしても「走る日立」にしても、泥臭く戦うチームカラーが想像できるだろう。
当時、東洋工業には小城得達や松本育夫といった日本代表のレギュラーが勢ぞろいしていたし、三菱には「20万ドルの足」杉山隆一や森孝慈、ヤンマーディーゼル(現セレッソ大阪)には釜本邦茂やネルソン吉村(日本名、大志郎)といったスター選手がいたが、それに比べると日立にはJSL初代得点王の野村六彦とか平沢周策といった、ちょっと地味な曲者タイプが揃っていた。
だが、他のJSLクラブのように強化体制が整っていなかったため、日立はJSLで2部降格も経験。Jリーグ創設メンバー(いわゆる「オリジナル10」)に選ばれず、Jリーグ参入は1995年のことだった。
【スタイルは確立されるか】
「走る日立」から「大学サッカーのスター軍団」といったように、年代によってイメージがころころ変わり、成績的にも上下動が激しかったJSL時代の日立。
柏レイソルとしてJリーグ入りを果たしてからも、浮き沈みは激しかった。
そういう意味で、2011年にJ1昇格(復帰)して即優勝したのは「いかにも柏らしい」と言うことができるかもしれない。
Jリーグ参入初期にはブラジルのカレカとか、ブルガリアのフリスト・ストイチコフ、韓国の洪明甫(ホン・ミョンボ)といったスター選手を入団させた時代もあった。
また、柏は下部組織が充実し、明神智和や酒井宏樹、中山雄太、古賀太陽、細谷真大といった日本代表クラスの選手を輩出もした。アカデミーからは吉田達磨や下平隆宏といった優れた指導者も生まれた。
だが、そうした流れも長続きしない。せっかく下部組織から育った選手たちも次々と流出してしまうし、生え抜きの指導者もトップチーム監督の座に就くと結果を求められて短期間で解任され、流出してしまった......。もったいないことだ。
今シーズンの柏はリカルド・ロドリゲス監督の下で、昨年までとはまったくイメージの違う、組織的なポゼッションサッカーでJ1優勝を目指しているのである。
今シーズンのタイトルの行方がどのような結果になったとしても、せっかく"いい流れ"ができたのだ。それを定着させて「レイソルのスタイル」として確立させていってほしいものである。
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