学校での部活を取り巻く環境が変化し、部員数減少も課題と言われる現在の日本社会。それでも、さまざまな部活動の楽しさや面白さは、今も昔も変わらない。

 この連載では、学生時代に部活に打ち込んだトップアスリートや著名人に、部活の思い出、部活を通して得たこと、そして、今に生きていることを聞く──。部活やろうぜ!

連載「部活やろうぜ!」
プロ野球】西川愛也インタビュー 第1回(全4回)

【部活やろうぜ!】今季飛躍の西武・西川愛也が振り返る花咲徳栄...の画像はこちら >>

 今季パ・リーグ4位の134安打と同3位の25盗塁を記録した西武の西川愛也にとって、野球人生を切り開くきっかけをつかんだのが高校時代だった。

 今でも関西弁が口をつくように、生まれは大阪府堺市。小学生の頃に全国優勝を経験し、中学では多くのプロ野球選手を輩出している浜寺ボーイズへ。当時、有望な卒団生は高知の明徳義塾か埼玉の花咲徳栄に入学するケースが多かったが、西川はエリートコースを歩んだわけではない。

「うまい人は中2でスカウトされますけど、僕はその1年で6回くらい骨折するなど、ケガが多かったんです。当時ほとんど試合に出ていなかったので、どこも獲ってくれるところがなくて......。でも花咲徳栄の監督が僕を1年生の頃から見ていてくれて、『獲るよ』と言ってくれました」

 埼玉県加須市にある私立花咲徳栄高校は、2001年夏に甲子園初出場。前年秋にコーチから昇格したのが岩井隆監督だった。打撃指導に定評があり、愛斗(ロッテ)や若月健矢(オリックス)、野村佑希(日本ハム)らも、プロに送り出している。

 多くの中学生が可能性を見極められる2年時、ほとんど試合に出られなかった西川の才能は、なぜ岩井監督の目にとまったのか。西川がのちに両親から知らされたのは、意外な理由だった。

「中1の時、試合中に球場の外にいてファウルボールを拾いに行く役割をしていました。その立ち姿が良かったらしいです。立ち姿がいい人は自分を俯瞰して見られているからこそ、自分自身を客観的に見ることができると」

 中学生の西川にとって、花咲徳栄は好印象の高校だった。浜寺ボーイズでは先輩が甲子園に出ると応援に行き、2013年のセンバツに花咲徳栄が出場した際にも駆けつけていたからだ。

「甲子園に出るチームという印象がありました。あとは単純に水色がいいなって(笑)」

 ユニフォームの胸に漢字で書かれた校名と、キャップとアンダーシャツ、ソックスの鮮やかなスカイブルーが好きだった。のちに入団する西武もかつては水色を基調としたユニフォームで、現在でも特別ユニフォームで水色を取り入れる場合がある。西川にとって縁のある色になった。

【「こっちが適応しないと」】

 花咲徳栄への進学が決まり、待っていたのは寮生活だ。大阪の少年たちは15歳で親元を離れることを厭わず、全国各地の私学に進むケースが少なくないとよく聞く。

 だが、西川は決して前向きに捉えていたわけではなかった。

「嫌だなっていうのはありましたよ、もちろん。家から通うほうがいいですよ。

けど、行くしかないので。ホームシックにはならなかったですけど」

 現在、花咲徳栄の野球部員が暮らす寮は、西川が卒業した年の1月に新設されたものだ。西川が高校生だった頃、野球部の旧寮はグラウンドのライト側のファウルゾーンに建てられていた。築30年以上で、壁に開いている穴から野良猫が入りこんだり、クモやハチ、ネズミ、ゴキブリが出ることも珍しくなかった。

「最初はビックリしました。でも、慣れるしかなかったですね。こっちが適応しないとダメだって(笑)」

 土日の朝、衝撃的な光景を目にした。平日は学校の食堂で朝食をとってから授業に行くが、土日は食堂からパンと紙パックのコーヒーや紅茶などをもらってきて寮で食べる。3年生、2年生、1年生と順番で受け取り、お腹を空かせた西川が最後のほうに取りに行くと...‥。

「鳩がめちゃめちゃ突いているんですよ。パンの袋を開けて、めっちゃ食っている。後から取りに行ったら、『俺らのないやん?』みたいな。

朝メシがなくて、コーヒーだけ飲んで練習ということもありました」

 ただ、環境的には大変な点もあったが、いわゆる強豪野球部と聞いて連想されるような上下関係はなかった。のちに西武でチームメイトになる2学年上の愛斗をはじめ、浜寺ボーイズの先輩たちや、他の上級生はみんな優しかった。

「ほどよい上下関係で、むしろ優遇されていたと感じます。皆さん、めちゃめちゃ優しくて、伸び伸びできたと思いますね」

 以下は、当時の大まかな1日の流れだ。

7時:寮で点呼

8時:学校の食堂で朝食→授業

16時:部活動開始

18時30分:部活動終了

20時:夕食

22時:夜練終了。寮に戻ってシャワー、夜食

23時:消灯

 近年は強豪校でも朝練をなくし、十分な睡眠時間を確保してリカバリーや身体の成長につなげようとするチームが増えている。花咲徳栄では西川の在学当時から、基本的に朝練はなかった。

【"食トレ"として夕食に1000グラムの白米、夜食にはカップ焼きそば】

 野球では、速い球を投げ、打球を遠くに飛ばせる選手が大成しやすく、身体をいかに大きくするかが重要になる。そのためには栄養、休養、トレーニングのサイクルをうまく回すことが大事になるが、花咲徳栄の食事はどうだったのか。西川が振り返る。

「学生だったので栄養面はあまり考えず、量をとって体重を増やそうとしていました。夕飯の場合、米は1000グラム量って、納豆や数種類のおかずで流しこむ。

米がきつかったですね」

 夜食は先輩たちにならい、ほぼ毎日カップ焼きそばを食べた。

「先輩が食べているのを見ると、なんか美味しそうなんですよ(笑)。そういうものだと思って、僕も夜食に食べていました」

 栄養学的に見れば、改善点はたくさんあるだろう。日本で、野球をはじめ、スポーツが科学的に捉えられるようになってきたのは、まだ最近の話だ。

 西川の記憶によると、高校入学時点の体重は60キロ。2年半が経ち、西武にドラフト指名された頃は78キロと発表されている。

 現在は、181センチ、90キロ。西武入団以降、トレーニングと食事で肉体を鍛え上げた。やはり、プロで活躍するには一定以上のフィジカルが不可欠だ。

 心身ともに成長したプロ8年目の今季、西川は目標のひとつに掲げていた二桁本塁打(10本)を初めて達成した。

「一軍で活躍するまでが、ちょっと長すぎましたね」

 2017年ドラフト2位で入団して以降、将来の主軸候補として期待されてきたが、一軍で羽ばたくには予想以上の時間を要した。

 その大きな原因は、高校時代にさかのぼる。

「野球人生、終わった」という大ケガを負ったからだ。

>>>第2回へ──【部活やろうぜ!】西武・西川愛也が今も高校時代の恩師に指導を請う理由「あの人に教えてもらったら打てる」

西川愛也(にしかわ・まなや)
1999年6月10日生まれ、大阪府出身。181センチ・90キロ、右投げ/左打ち。外野手。大阪府堺市の浜寺ボーイズから、埼玉県の花咲徳栄高等学校に入学し、甲子園には3度出場した(2年春、2年夏、3年夏)。3年夏は甲子園の決勝戦で3安打4打点を記録し、同校初、埼玉県勢史上初の優勝に貢献。高卒で埼玉西武ライオンズにドラフト2位で指名された。高校時代に負ったけがの影響で、プロで活躍するまでに時間を要したが、8年目の2025年シーズンに開花。パ・リーグ4位の134安打と同3位の25盗塁を記録した。

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