『ハイキュー‼』×SVリーグ コラボ連載vol.2(9)

Astemoリヴァーレ茨城 渡邊彩 前編

【とんとん拍子じゃなかったから選手を続けられた】

 Astemoリヴァーレ茨城の渡邊彩(34歳)は、小学校4年生でバレーボールを始めた。母親がママさんバレーをやっていたのがきっかけだった。家ではテレビで日本代表の試合を観ながら、ぼんやりと「こんな舞台でやりたいな」と思っていたが、そこまで強い願望ではなかったという。



【女子バレー】渡邊彩はパリ五輪メンバー落選での「精神崩壊」も...の画像はこちら >>

 当時の自分にタイムマシンで会うことができたら、なんと伝えるか?

 トップリーグでさまざまなチームを渡り歩き、日本代表としても五輪予選やネーションズリーグで熱狂の舞台に立った。しかし高校卒業した2010年から、トヨタ車体クインシーズ(現・クインシーズ刈谷)に入団する2017年までは、V・チャレンジリーグでプレーしていた。そんな渡邊は、少し思案を巡らせてから言った。

「『これから先はいろいろあるけど、自分を信じて頑張って』ですかね。もうちょっと近道はあった気もしますけど、逆にとんとん拍子だったらやめていると思います。自分より先にVリーグでプレーしていた仲間は、もうみんなやめているので。

 私も周りに『続かない』って言われていたし、(早くからVリーグのトップでプレーしていたら)23、24歳で『もういいや』って思っていたはず。でも、手に入らなかったから追いかけて......同期のなかでも一番長く続けられているんですよね」

 では、小学4年生の渡邊はなんと返すだろうか?

「『バレーは何が楽しいの?』って聞くかもしれません。当時は、何か習いごとをやるのが流行っていて、バレーもそのひとつでした。『お母さんがやってるから自分も』という感じで、そこまで興味はなかったんです」

 渡邊はそう言って明るく笑った。彼女はバレーの何を愛し、何を追い続けているのか?

【荒木絵理香の背中も追いかけて】

 小学校ではセッターから始め、その後はレフトに転向した。中学でもバレーを続けて選抜にも呼ばれたが、バレーに人生をかける感覚とはほど遠かった。

 変化の予兆は高校時代にあった。

「お前はミドルだ」

 宮城の名門・古川学園高校で、入部と同時にそう言われたという。

「ステップが逆足だったので、その矯正から始まりました。しばらくはステップの練習ばかり。なんでミドルになったかはわからなくて......人数が少なかったからじゃないですかね?」

 渡邊はおどけて言うが、天職のポジションだった。ワンレッグのブロードは、彼女の代名詞だ。

「高校で『プロでやりたい』という気持ちが次第に湧いてきました。古川学園は"絶対に日本一"というチームだったので、自然と『自分もうまくなりたい』となりましたね。Vリーグに行く先輩の姿を見て、その選択肢もあるんだなって」

 道筋が見えると、渡邊は真っすぐ進んだ。高校卒業後、V・チャレンジリーグの三洋電機レッドソア、仙台ベルフィーユでプレーした。

「仙台では、当時の葛和(伸元)監督から『小さい選手がトップで活躍するには技術ないとダメ』と言われ、半年間、ティップだけを集中的に練習しました。自分のバレースタイルを確立するというか、よりスピードに磨きをかけ、ブロックアウトやティップのスキルを細かく詰めた期間でしたね」

 しかし、ふたつのチームはどちらも活動休止。プレーする場所を奪われたが、彼女は現役続行を選ぶ。

そしてVリーグのトヨタ車体に入団した。

「トヨタ車体では、(元日本代表で監督の多治見)麻子さんとの出会いが大きいですね。『ブロードだけじゃなくて、クイックも練習しよう』と言ってくれて。チャレンジリーグ時代は9割がブロードだったんですが、麻子さんにはクイック、ブロックも教えてもらいました。スキルにプラスして攻撃の形も学ぶことでバレーの世界が変わりました」

 はるか彼方にあった日本代表入りも、現実味を帯びるようになった。

「チャレンジリーグ時代は『頑張っても無理だろう』と思っていました。身長も特別大きいわけでなかったし(176cm)、なかばあきらめていましたね。

 それが、トヨタ車体では(荒木)絵理香さんとも一緒になって、初めて会った時は『テレビで観ていた選手!』と、めっちゃ脇汗かいたのを覚えています(笑)。体格は違うけど、ミドルとして生きる見本で、背中を必死に追いかけました」

【パリ五輪メンバー落選から】

 トヨタ車体に入って2年目で、日本代表に初選出された。彼女はそうやって、バレー人生を少しずつ積み上げてきた。だからこそ、昨夏のパリ五輪メンバーからの落選は「精神が崩壊した」という。

「心って大事だなって思いました。

同時期に父が亡くなったこともあり......。『バレーをやりたくない』となって、今まで無理してきたことが全部、体に出ちゃいました」

 渡邊は昨シーズン、SAGA久光スプリングスで苦難の1年を過ごした。

「どうにか『またやりたい』となってきた時に、股関節が痛くて、足が上がらなかった。原因はわからなかったんです。少しよくなったと思ったら、今度はクリスマスの夜中3時に、突然、耳が痛くなって。中耳炎でした。だいたい1カ月は指示も聞こえないし、自分が真っすぐ立っているかもわからない。ポールもぼんやり見えるくらいでした。

 その後(今年2月)もふくらはぎを痛めて......。それでも、続けようと。『どうなってもバレーが好きなんだろうな』と思いました」

 彼女はそう言って笑い飛ばした。バレーに対する執念だ。

「これだけ大きなエネルギーを観る人たちに伝えられる仕事って、なかなかないじゃないですか。楽しいし、やみつきになってしまって離れられません」

 パリ五輪の最終予選で、彼女は肌が粟立つことがあったという。

「最終予選のブラジル、トルコ戦では、ゾーンに入っていたと思います。自分より身長が20cmくらい高い、アゴが上がる(ように見上げる)選手たちが前にいても怖くなかったです。『打ち下ろされても、通過する軌道にタイミングさえ合わせてブロックに跳んだら止められる』と。

 それまではブロックにネガティブな感じもありましたが、『小さくても世界と戦えるんだ』と思いました。国を背負って戦うこと、会場の熱気に『楽しい』と熱くなった自分がいて。ただ、もう過去の話ですし、それに浸っているわけじゃないですけどね」

 その興奮が彼女をコートに引き戻す。もはや、離れられない。多治見が作った最年長記録、39歳11カ月は大きな目標で、3年後のロサンゼルス五輪もあきらめていない。

「バレーを通して、人生を感じられるのがいいんですよ。代表を目指して現役を続けてきたので、プレーヤーである以上はトライします」

 渡邊は熱烈に、バレーへの愛の詩を詠む。

(後編:渡邊彩は、及川徹の名言に自分を重ね合わせる「やり続けることが大事」>>)

【プロフィール】

渡邊彩(わたなべ・あや)

所属:Astemoリヴァーレ茨城

1991年4月23日生まれ、宮城県出身。176cm・ミドルブロッカー。母の影響で小学4年からバレーを始める。古川学園高時代には、春高バレーで2年連続準優勝。卒業後、三洋電機レッドソア(活動休止)から仙台ベルフィーユ(解散)を経て、2017年にトヨタ車体クインシーズ(現・クインシーズ刈谷)に入団。2021-22シーズンから日立リヴァーレ(現・Astemoリヴァーレ茨城)で、2024-25シーズンはSAGA久光スプリングスでプレー。2025年にAstemoリヴァーレ茨城に復帰した。日本代表は2019年に初選出。2023年のパリ五輪予選東京大会で活躍し、2024年はパリ五輪の出場権獲得に貢献した。

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