Jリーグ懐かしの助っ人外国人選手たち
【第19回】ビスマルク
(ヴェルディ川崎、鹿島アントラーズ、ヴィッセル神戸)
Jリーグ30数年の歩みは、「助っ人外国人」の歴史でもある。ある者はプロフェッショナリズムの伝道者として、ある者はタイトル獲得のキーマンとして、またある者は観衆を魅了するアーティストとして、Jリーグの競技力向上とサッカー文化の浸透に寄与した。
第19回はビスマルクを取り上げる。ヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)と鹿島アントラーズをリーグ王者へ導いたこのブラジル人MFは、サッカー王国の選手たちが遺伝子に組み込む創造性や意外性ではなく、基本技術の正確さで観衆をうならせた。
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日本のサッカーファンに初めてその姿を認識させたのは、1991年のキリンカップサッカーだっただろう。日本代表とタイ代表、それにトッテナム・ホットスパー(イングランド)とヴァスコ・ダ・ガマ(ブラジル)が、総当たりのリーグ戦で順位を争った。ビスマルクは1990年のイタリアワールドカップメンバーとして、GKアカッシオやFWベベットとともにチームの看板選手だった。
1991年のキリンカップは日本代表が3連勝を飾り、初優勝を飾ったことで知られる。トッテナムのガリー・リネカーの来日も話題となり(彼自身は活躍できなかったが)、ヴァスコ・ダ・ガマにはスポットライトが当たることはなかったものの、ビスマルクは3試合に出場して3ゴールを挙げている。「さすがはセレソン」との印象を与えた。
当時20歳である。ヨーロッパのクラブへ移籍するのは時間の問題だろう、と思われた。
ところが、1993年の夏に日本へやってくるのだ。
のちに彼が話したところによると、「ヨーロッパへ行くことも、ブラジル国内での移籍の可能性もあったけれど、どちらもうまくまとまらなかった」という。「それで、知り合いのブラジル人スタッフがいるヴェルディ川崎からの誘いを受けることにした」とのことだった。
【カズにとって最高のパートナー】
Jリーグ開幕初年度(1993年)のヴェルディは、ファーストステージで2位に終わっていた。開幕直前にオランダ人の選手とスタッフが加わったことで、チームはピッチの内外で秩序を失っていた。混乱を極めるチームに調和をもたらしたのが、このブラジル人MFだったのである。
派手さはなかった。ブラジル人の攻撃的MFが連想させる創造性や意外性、芸術性や華麗さは、潔(いさぎよ)いほどに削ぎ落していた。
彼が見せたのは、「止める、蹴る」の正確性である。
止めるべき場所にボールを置き、味方選手に正確につなぐ。パススピードも、パスを出すタイミングも、申し分がない。
受け手の足もとにつけるのか、スペースへ届けるのか。足もとなら右足か、左足か......というところまで考えて、ビスマルクはパスを出していた。
インサイドキックのフォームは、とにかく綺麗だった。
正確性を追求するサッカー観について、ビスマルク自身に聞いたことがある。その日も彼は、押し出すようなインサイドキックでゴールを演出していた。
「相手の読みを上回るような創造性とか意外性は、もちろんすばらしいものだと思う。それはサッカーの魅力の一部であって、『ブラジルらしい』とあなたが考えるのも理解できる。でも、僕にとっては、技術を突き詰めるほうが合理的なんだ」
優れたフィニッシャーでもあった。リーグ戦では1994年と1995年、それに鹿島アントラーズへ移籍した1997年にふたケタ得点を記録している。
大一番にも強かった。1993年のリーグカップ決勝では優勝に導く同点ゴールを蹴り込み、同年のチャンピオンシップ第1戦ではヘディングで追加点を決めている。翌1994年のリーグカップ決勝でも、勝利を決定づける2点目をマークした。
ヴェルディでは1993年から1996年までプレーした。
【鹿島では7つのタイトル奪取に貢献】
翌1997年からも、Jリーグでプレーした。鹿島アントラーズの一員となった。旧知のジョルジーニョがチームメイトになることを勧め、ジーコからの連絡を受けて迷いなく入団を決めた。
「引き続きJリーグでプレーしたいと思っていたし、子どもの頃のアイドルだったジーコに誘ってもらったのはうれしかった。それに、鹿島は優勝を狙えるクラブで、その一員になりたかった」
加入2年目の1998年に、Jリーグチャンピオンシップ制覇の立役者となった。カシマスタジアムで行なわれたジュビロ磐田との第2戦で、右サイドの直接FKから秋田豊の先制ヘッドを導き、その2分後にはペナルティエリア外の直接FKを右足で決めてみせた。リスタートのキッカーとしても優れていることを、タイトルがかかった大一番で証明したのである。
鹿島には5シーズン在籍し、リーグ戦3回、リーグカップと天皇杯は2度ずつ獲得した。2000年にはJリーグ発足以来初の3冠も達成している。鹿島が獲得している19の3大タイトルのうち、実に「7つ」も関わっているのだから、その功績はジーコやレオナルド、ジョルジーニョやマルキーニョスに見劣りしない。
鹿島在籍時には、秋田や相馬直樹、名良橋晃らとプレーした。
1998年に入団してきた小笠原満男、本山雅志、中田浩二らにとっては、プロフェッショナルのロールモデルだったに違いない。鹿島アントラーズというクラブの繁栄にも、ビスマルクは大きく貢献したと言える。
2001年シーズン限りでブラジルへ帰国したが、2003年8月にヴィッセル神戸と4カ月の短期契約を結んだ。チームのJ1残留を後押しする存在として、同胞オゼアスらと勝ち点の積み上げに力を注いだ。神戸在籍時に34歳の誕生日を迎えたものの、プロとしての土台となった技術に衰えは見られなかった。
「技術こそが自分を助けてくれる」
来日時に話していた矜持を、最後までピッチで表現した。

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