世界に魔法をかけたフットボール・ヒーローズ
【第39回】ルート・フリット(オランダ)

 サッカーシーンには突如として、たったひとつのプレーでファンの心を鷲掴みにする選手が現れる。選ばれし者にしかできない「魔法をかけた」瞬間だ。

世界を魅了した古今東西のフットボール・ヒーローたちを、『ワールドサッカーダイジェスト』初代編集長の粕谷秀樹氏が紹介する。

 第39回は1980年代後半に世界を席巻した「オランダトリオ」のひとり、ルート・フリットを紹介したい。ピッチに立つ彼の姿に目を奪われたのは、印象的な髪型のせいだけではない。輝かしい80年代~90年代のミラン黄金時代において、華麗なプレースタイルはカルチョの世界で異彩を放っていた。

   ※   ※   ※   ※   ※

【欧州サッカー】ルート・フリットは「自由人」 名将・サッキに...の画像はこちら >>
「ドレッドロックス」とは、互いに絡まり合っている束形状のヘアスタイルであり、単語自体は1930年代のジャマイカで労働者階級と農民を中心に発生した宗教的思想運動が発祥と言われている。

 レゲエの先駆者であるボブ・マーリーの髪型──と言えば、おわかりいただけるだろう。えっ、ボブ・マーリーを知らないって? ご自分でお調べください。

 プロである以上、人目を惹くのは重要な要素だ。今から四半世紀ほど前、当時は奇抜としか映らなかったドレッドロックスに加え、190cm超えの長身、柔軟なテクニック、精度の高いフィードなどで、世界中から注目された男がいる。

 ルート・フリット。

 本人は「フリット」と呼ばれることを極端に嫌っていた。「揚げ物じゃないんだから」。

なるほど、そのとおりだ。だが、GULLITのGUの正しい音は、日本語の五十音に存在しない。「喉の奥」でクと発声すると最も近くなる。ならばイタリア風に「グーリット」か。外国語のカタカナ表記は、日本メディアにとって永遠のテーマである。

 フリットはオールマイティだった。ストッパー、リベロ、守備的MF、右ウイング、10番、センターフォワードを難なく、そして高度にこなした。

【10分で取材を終わらせてくれ】

 1987年にPSVからミランに移籍した時、特異な風貌に注目したイタリアのメディアも、そのプレーを見た瞬間に色めき立った。戦術重視のカルチョに即フィットし、状況に応じて最善のプレーを披露するフリットに魅せられたのである。

 しかも、かなりの自信家だ。「特別なことはやっていない」「俺のレベルならごく普通」「この程度で驚くな」などなど、メディアが喜ぶコメントも発信する。アリゴ・サッキ監督に「余計な話はするな」とクギを刺されても、まったく気にしなかった。

 世評を気にしない生き方は、1990年のトヨタカップで来日した際にも発揮された。

筆者の古巣『サッカーダイジェスト』はミランの広報を通じ、フリットのインタビューに臨む予定だった。ところが、待てども暮らせども約束の時間に現われない。

 30分、いや45分、あるいはさらに長く待ったのだろうか。すると、彼はあくびをしながらやってきた。広報が早口でまくし立てている。フリットに悪びれた様子は一切なく、こう話しかけてきた。

「マッサージを受けていたら寝ちゃったんだよ。この後、ミーティングがあるので、10分程度で終わらせてくれるか」

 それはないよ。

 よきにつけ悪しきにつけ、フリットは「自由人」だ。固定概念や常識にはとらわれない。しかし、この感覚が多くの軋轢を生んだ。サッキにしろファビオ・カペッロにしろ、ミランの歴代監督は自らの哲学に則り、各選手を手駒として各所に配置する。

個の能力より組織を優先するタイプだ。自由人には適していない。

 同じ時代にミランを生きたフランク・ライカールトやファン・バステンはそつなく(表面上は)対応したものの、プレッシングにうるさいサッキにも、陸上選手のような走力を求めるカペッロにも、フリットは意見した。

 ただ、指揮官たちも頑固者だ。決して譲らない。結果、スタメンから外れたフリットが周囲に不満を漏らす。メディアにおいしネタをさらす。関係に亀裂が生じる......。絵に描いたような崩壊の図式だ。

【なぜか毎回「首謀者はフリット」】

 1987年のミラン移籍以降、セリエAは3回、チャンピオンカップ(現チャンピオンズリーグ)は2回、インターコンチネンタルカップ(トヨタカップ)とコッパイタリアは1回ずつと、フリットは多くの栄冠をミランにもたらした。しかし、その自由すぎる性格は監督だけでなく、フランコ・バレージやアレッサンドロ・コスタクルタといった主力とも激しく衝突した。

 型にはめられることを極端に嫌ったフリットは、サンプドリアへと移籍する。

 ほんの少しだけでも歩み寄れなかっただろうか。

当時のミランはたしかにシステマティックだったが、「機能美」という表現がふさわしいほどに統制が取れていた。

 さらなる高みを目指すために、フリットがサッキやカペッロとワイングラスを傾けていたら、その後のフットボールの流れは大きく変わっていたかもしれない。

 1995年からはイタリアを離れ、イングランド・チェルシーに新天地を求めた。しかし、特大のインパクトは残せずに、1997-98シーズン限りでユニフォームを脱いだ。

 オランダ代表では1988年のヨーロッパ選手権で優勝したあと、メジャー大会では何度も優勝候補に挙げられながら期待に応えられなかった。監督との不和、人種間の衝突など、フリットの世代が軸だった当時は、パフォーマンスよりチーム内のエゴばかりメディアに取り上げられた。非凡な才能を持つ集団だったにもかかわらず、オランダ代表は空中分解を繰り返す。

 そして、なぜか「首謀者はフリット」と決めつけられた。ミランに在籍していた当時の言動が影響していたのだろうか。

 しかし、この男のパフォーマンスは、絶好調時のたたずまいは、群を抜いていた。

 長身とジャンプ力を利したヘディングで、相手GKの自信を根底から奪い取る。絶妙の間合いと運動能力で、スピード系のウイングをあっさりと封じる。

中盤の底で長短緩急のパスを自在に操り、10番のポジションでは美しいスルーパスで人々を魅了した。

 ギラついた時代は短かったが、これほどのパフォーマンスはクリスティアーノ・ロナウドやリオネル・メッシでも不可能だろう。

【フリットが再評価される日は...】

 現在、フリットはメディアの世界でサッカー解説者として従事している。最近では12試合13ゴールの上田綺世(フェイエノールト)に対して「根本的にストライカーではない」と苦言を呈した。古巣の後輩には厳しくなりがちなのか。

 引退後の監督としてのキャリアは、チェルシー、ニューカッスル、フェイエノールト、ロサンゼルス・ギャラクシー、テレク(現アフマト)・グロズヌイ......チェルシー時代の1997年にFAカップは制したものの、それ以外で成功したとは言いがたい。自由人に組織の管理は難しいのかもしれない。ニューカッスルを率いていた当時の「セクシーフットボール」なるスローガンも、評判倒れに終わっている。

 ただ、フリットが掲げたセクシー(魅力的な)フットボールは、戦略・戦術に縛られず、選手の個性とセンス、テクニックを重んじる攻撃的なスタイルだったのではないだろうか。

 20年ほど前のニューカッスルには無理だったかもしれないが、フリットと同じ理想を掲げる監督も世界のどこかにいるはずだ。プロのフットボールは、スポーツであると同時にエンターテインメントでもある。近ごろは自由な感覚が失われ、かなり窮屈になってきた。

 フリットのような「異才」を再評価してこそ、フットボールはさらに楽しくなる。

編集部おすすめ