語り継がれる日本ラグビーの「レガシー」たち
【第37回】林敏之
(城北高→同志社大→神戸製鋼/オックスフォード大)

 ラグビーの魅力に一度でもハマると、もう抜け出せない。憧れたラガーマンのプレーは、ずっと鮮明に覚えている。

だから、ファンは皆、語り継ぎたくなる。

 連載37回目は、抜きん出た突破力と激しいタックルで「壊し屋」の異名をとった林敏之(はやし・としゆき)を紹介する。1987年の第1回ワールドカップで主将を務め、同志社大にとって初めての日本一、そして神戸製鋼の7連覇(V7)にも貢献した伝説のLOだ。

※ポジションの略称=HO(フッカー)、PR(プロップ)、LO(ロック)、FL(フランカー)、No.8(ナンバーエイト)、SH(スクラムハーフ)、SO(スタンドオフ)、CTB(センター)、WTB(ウイング)、FB(フルバック)

 桜のジャージーで戦うこと13年、キャップ数は38。1989年のスコットランド撃破の立役者となるなど、記憶にも記録にも残る日本ラグビー史上屈指の名FWである。

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ラグビー日本代表・伝説のLO林敏之 2メートル級の巨漢に「壊...の画像はこちら >>
 背番号「4」を背負い、白いヘッドキャップと口ひげがトレードマークの愛称「ダイマル」。身長184cmだった林は、現在のLOとしては小柄な部類に入る。しかし、その強靭な肉体と魂のタックルで、世界の巨漢たちと互角以上に渡り合った。

「徳島の田舎にいた頃からラグビー雑誌を見て、桜のジャージーに憧れていました。私にとって、あの紅白のジャージーは最高のもの。まさに命をかけてプレーしていました」

 彼の代表ユニフォーム姿で真っ先に浮かぶのは、やはり1987年の第1回ワールドカップだ。同志社大3年時から代表入りし、この時27歳になっていた彼は、前年からキャプテンを任されていた。

 初戦のアメリカ戦は18-21で惜敗。続くイングランド戦は7-60と大敗を喫した。そして最終戦の相手は優勝候補のオーストラリア。「このままでは恥ずかしくて日本に帰れない!」。林主将はチームを鼓舞し、決戦に臨んだ。接点での奮闘もあり前半は13-16と善戦。後半に突き放されたものの、23-42と大いに健闘して意地を見せた。

 その後、宿澤ジャパンが始動した1989年5月。東京・秩父宮ラグビー場で行なわれたスコットランド戦にスタメン出場した林は、前半33分にラインアウトからトライを奪うなど、歴史的勝利(28-24)に貢献する。1991年の第2回ワールドカップでも日本が初勝利を挙げたジンバブエ戦に出場するなど、1992年のアジア大会まで彼は13年間にわたって日本FWの精神的支柱であり続けた。

【愛称「ダイマル」の由来は...】

 林は1960年、徳島県徳島市生まれ。父は立命館大ラグビー部出身の高校教師だったが、林少年は小学5年生から中学までサッカーに熱中した。しかし中学のクラブ選択で、父の影響もあってラグビー部へ。

そこで楕円球の魅力に初めて触れた。最初のポジションはSOだったという逸話も残る。

 地元の徳島・城北高に進学すると、すぐに生涯のポジションとなるLOへと定着。花園(全国大会)には届かなかったが、高校2年生で高校日本代表候補、高校3年生では高校日本代表としてオーストラリア遠征を経験した。

 高校卒業後は、高校日本代表のコーチを務めていた岡仁詩監督に誘われて、関西の名門・同志社大へ。林は入学した早々、漫画『プロゴルファー猿』の主人公、猿丸の弟・大丸に似ていることから「ダイマル」と呼ばれるようになり、その愛称は海外でも「MARU」として親しまれた。

 大学では1年時からレギュラーを獲得するも、大学選手権では苦杯をなめ続けた。1年時は準決勝で、2年時は決勝で明治大の前に涙をのむ。

 雪辱を果たしたのは大学3年時。決勝で再び明治大と対戦し、林のトライなどで11-6と勝利。ついに同志社大初の日本一に輝いた。4年時は主将を務めたが、大学選手権の準決勝でまたしても明治大に敗れ、連覇はならなかった。

 大学卒業後は「神鋼・育ての親」である亀高素吉専務(当時)に誘われ、まだ優勝経験のなかった神戸製鋼へ。入社当初は結果が出なかったが、1985年度の全国社会人大会準決勝で当時V7中の新日鉄釜石を12-9で撃破。釜石のV8を阻止するという大金星を挙げた。だが、決勝ではトヨタ自動車に敗れ、初優勝はお預けとなる。

 1986年度、林はキャプテンに就任するも、全国社会人大会の準決勝で新日鉄釜石と引き分けて抽選負け。翌1987年度はチームのスクラム強化のためPRに転向するも、1回戦で東芝府中に15-16で敗退。ここで林は主将の座を退いた。

【YouTubeでも精力的に発信】

 転機は1988年度。主将のポジションを後輩・平尾誠二に託し、自身はLOへ復帰。これが奏功し、全国社会人大会決勝で東芝府中を23-9、日本選手権では大東文化大を47-17で圧倒し、入社7年目にして悲願の日本一を達成した。林は間違いなく、神鋼黄金時代の礎(いしずえ)を築いたひとりである。

 30歳を迎えた林は、さらなる高みを目指してイギリスの名門・オックスフォード大学へ留学。

「世界と戦いたい」という一心で、2メートル級の巨漢がひしめくなか、184cmながらひるむことなく体を張り続けた。

 そして日本人として初めてケンブリッジ大学との定期戦「バーシティマッチ」に出場し、文武両道の証である「ブルー」の称号を獲得。のちにオックスフォード大ラグビー部「歴代ベスト15」にも選出される快挙を成し遂げている。

 現役生活は36歳まで続けた。晩年は左ひざのケガにより公式戦出場は叶わず、1995年度、神戸製鋼のV7が止まったサントリー戦を秩父宮ラグビー場のスタンドで見届けたあと、23年にわたるラグビー生活に終止符を打った。

「ラグビーが好きで一生関わりたい。ラグビーから得た感動を伝え、人に気づきを与えたい」

 その志(こころざし)は引退後、「NPO法人ヒーローズ」の設立という形で結実した。小学生の全国大会「ヒーローズカップ」を主催するなど、ラグビーの普及と育成に尽力。また、YouTubeでの発信も精力的に行なうなど、トレードマークの口ひげを蓄えた「ダイマル」は今も変わらぬ笑顔でラグビーの魅力を伝え続けている。

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