Jリーグ懐かしの助っ人外国人選手たち
【第21回】パトリック・エムボマ
(ガンバ大阪)
Jリーグ30数年の歩みは、「助っ人外国人」の歴史でもある。ある者はプロフェッショナリズムの伝道者として、ある者はタイトル獲得のキーマンとして、またある者は観衆を魅了するアーティストとして、Jリーグの競技力向上とサッカー文化の浸透に寄与した。
第21回はパトリック・エムボマを取り上げる。「規格外」という言葉は、この男にこそ当てはまるだろう。1997年のガンバ大阪加入当時は、日本ではほぼ無名の存在だったと言っていい。
しかし加入1年目からケタ外れの身体能力を発揮し、ゴールを量産していった。チームにタイトルをもたらすことはできなかったものの、「ガンバの助っ人外国人で歴代最強」との呼び声は高い。
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エムボマ伝説は、Jリーグデビュー戦から始まる──。1997年4月12日、ガンバ大阪のホーム万博競技場で行なわれたベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)との一戦で、このカメルーン人ストライカーは初ゴールを決めた。ペナルティエリア左手前で突破を仕掛けると、相手DFに当たったボールが空中に跳ね上がる。このボールを、左右両足を伸ばして2度つつき、利き足の左足でシュートへ持ち込める態勢を作り出す。そのまま左足ボレーで叩くと、ゴール右上へぶち込んだ。「蹴り込む」でも「突き刺す」でもなく、「ぶち込んだ」のである。
翌第2節は、横浜マリノスとのアウェーゲームだった。ここでまた、エムボマは周囲の度肝を抜く。
ペナルティエリア手前でパスを受けると、ゴールを背にしながら右へ左へとステップを踏み、相対する井原正巳を翻弄する。
【ガンバの新たなシンボル】
エムボマは185cmのサイズがあり、手足がすらりと長い。一つひとつのアクションが日本人より大きいため、彼をマークするDFもより大きく動かなければならない。
ペナルティエリア付近なので不用意なファウルをしたくないとはいえ、日本代表で主将を務めている井原が止められなかったのは衝撃的だった。井原のすぐうしろにいた日本代表の小村徳男も、同じように左右に大きく揺さぶられていた。
しかも左足でのフィニッシュは、ベルマーレ戦のようなパワフルショットではなく、左足の柔らかなループなのである。日本代表で定位置をつかんでいたGK川口能活は、ボールの軌道を目で追いかけることしかできなかった。かくして「パトリック・エムボマ」の名前は、開幕からわずか2試合でJリーグ全体に轟いたのだった。
エムボマが加入する以前のガンバは、助っ人外国人のネームバリューや実績がチームの成績に結びついていなかった。旧ソ連代表としてメキシコワールドカップやユーロ88に出場したMFセルゲイ・アレイニコフ、オランダ代表としてイタリアワールドカップに出場したFWハンス・ヒルハウス、現役クロアチア代表でユーロ96に出場したMFムラデン・ムラデノビッチらがやってきたが、チームが優勝戦線へ浮上することはなかった。
エムボマが加入した1997年は、チームが変革期にあった。Jリーグ開幕当時からチームの顔だった礒貝洋光が浦和レッズへ移籍。その一方で、稲本潤一がユースから飛び級でトップチームに昇格した。チームが新たなフェーズへ向かっていくなかで、エムボマは新たなシンボルとして認知されていく。
このシーズンのガンバは、ファーストステージ8位、セカンドステージ2位で、当時クラブ最高位の4位でフィニッシュした。その原動力となったのは、もちろんエムボマである。
セカンドステージでは4節から12節まで9連勝を飾った。現在も記録として残っている9つの白星を連ねたなかで、エムボマは8ゴールをマークしている。シーズン通算では28試合出場で25ゴールをマークし、エジウソン(柏レイソル)、マジーニョ(鹿島アントラーズ)、サリナス(マリノス)らを抑えて得点王に輝いた。
【不慣れなボランチでプレー】
カメルーン代表でも得点源だったエムボマは、1998年のフランスワールドカップに出場する。
当時サッカー専門誌に勤めていた僕は、カメルーンのグループステージ2試合を取材した。カメルーン対オーストリア、イタリア対カメルーン戦で、どちらもヨーロッパ対アフリカである。東洋人の記者は少なく、必要以上に目立ってしまう。
初戦はオーストリアと引き分け、2戦目はイタリアに0-3で敗れた。エムボマは不慣れなボランチで起用され、ガンバで見せているポテンシャルを発揮できずにいた。
「でも、僕自身は初めてのワールドカップを楽しんでいるよ」と、イタリア戦後に彼は話した。
「僕はカメルーン出身だけど、フランスで育った。自分にとって特別な国で、こうしてプレーできるのは、僕の人生にとっても特別な経験だからね」
もちろん、とエムボマは続ける。
「ガンバ大阪でJリーグの得点王になることができて、ストライカーとして大きな自信を得ることができた。ガンバでやっていたことをカメルーン代表でも出せて、それでワールドカップ出場を決めることができたから、ここでも同じようにプレーができたらとは思う」
グループステージ最終節のチリ戦では、本来のFWで起用された。退場者を出して数的不利に陥るなかで、1-1の同点へ持ち込むヘディングシュートを決めた。
この時すでに、ガンバ大阪を離れることが決まっていた。ワールドカップ後はヨーロッパへ戻り、セリエAのカリアリへの加入が発表されていた。
「またいつか、どこかで」と言って、エムボマはミックスゾーンをあとにした。
フランスワールドカップから5年後の2003年、エムボマは東京ヴェルディにやってきた。すでに32歳になっていたものの、チームトップの13ゴールを叩き出した。全盛時を彷彿させる豪快な一撃も決めているが、2003年途中に監督に就いたオズワルド・アルディレスと折り合いがよくなかった。加入2年目の2004年は途中出場が多くなり、シーズン途中でヴィッセル神戸へ移籍した。
【キャリア晩年のエムボマは...】
エムボマにはどのチームへ行っても、「規格外の身体能力」とのイメージがつきまとった。しかし、恐るべきパワーに織り交ぜられたしなやかさや柔軟さが、年齢とともに少しずつ小さくなっていた。しかし、周囲が期待するのは「浪速の黒豹」と呼ばれていたガンバ在籍時のプレーなのである。そのギャップが、キャリアの晩年の彼を苦しめたような気がする。
ともあれ、日本とのつながりはかけがえのないものとなったのだろう。3人目の子どもに、日本人の名前をつけている。23歳になったケンジ・エムボマ・デムは、2025年7月にMLSのFCシンシナティと契約を結んだ。
そのプレーを見ることになった時、どんな気持ちになるのだろう。ケンジと日本サッカーがいつかどこかでつながることがあれば、エムボマもきっと喜ぶに違いないと思うのだ。

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