錦織圭という奇跡【第6回】
細木秀樹の視点(1)

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「日本百景」のひとつである宍道湖湖畔から、5キロほど小高い丘を登った三差路の角──。白壁に緑色の屋根のインドアコートと、坂の下に2面の屋外コートを備えた「グリーンテニススクール」が、錦織圭のテニスキャリアの始まりの地だ。

「僕が最初に圭を見たのは、彼が5歳の時。びっくりしすぎたので、よく覚えています」

 今もこの地で手腕を振るう細木秀樹(ほそぎ・ひでき)コーチは、日に焼けた丸顔に柔和な笑みを広げ、懐かしそうに、なおかつ色鮮やかに活き活きと、30年前の「あの時」を振り返った。

錦織圭を5歳から知る地元コーチが受けた衝撃 「うそでしょ!?...の画像はこちら >>

「うちのスクールは基本、入れるのは小学1年生からなんです。ただ、自分で自分のことができれば認めることもあるし、4歳年上のお姉ちゃんの玲奈(れいな)はすでにスクールにいたので『大丈夫だよね?』という感じで、圭はポッと入ってきた。

 最初に来た子に対しては、簡単なアジリティ(敏捷性)やコーディネーションなどの運動をさせてから、コートに入ってボールを打つ能力を見るんです。打ちやすい場所にボールを、手で投げて打たせるんですね。

 ただ、たいがいの子は、目でボールを追った時に頭や身体が上下し、身体全体の動きがバラバラになっちゃう。運動神経のいい子も、ラケットを持った途端に急に動きがおかしくなるというのが、よく見る光景なんです。

 ところが圭は、僕がボールをポンと出した時、頭と体と手の位置が真っすぐで、まったく崩れないまま目だけでボールを追い、パッと横に移動してボールを打った。そんなことができる子は見たことがなかったので、『あれ、ちょっと待て? おかしな子が入ってきたぞ』と思ったんです」

 上手だなと感心するのではなく、「おや?」と違和感を覚えたところに、すごみの深度がある。「まあ、玲奈もすごく上手だし、その弟だからな......」と自分に言い聞かせながらも、細木氏の内に、ちょっとしたいたずら心が芽生えた。

【30年コーチをやって初めて】

「あの時の圭は、僕がほかの子に球出ししているのを見ていたので、ボールが来る場所やタイミングを覚えて、うまく打てたのかもなと思った。だからちょっと意地悪して、ボールの投げる場所を前後や左右に変えてみたんです。

 それでも、一球目と同じように目だけでボールを追って動き、ポーンと打ったので、『あら、まずい、まずいぞ!』と。こんな子、いないよと思って。一球目と違うボールを送られたら、絶対に動きがバラバラになる。『コーチ、違うところに送らんでよ』って怒るのが普通なのに、圭は何事もなく打ち返した。それが4~5球続いたので、『うそでしょ!?』となりました」

 おののき半分、喜び半分で、細木コーチはヘッドコーチの柏井正樹氏(かしわい・まさき/故人)の下に報告に走る。

「とんでもない子が来ました!」

 はたして5歳の圭は、その日のうちに上のクラスへと昇格した。

「あんな子は、それまで見たことがなかったし、あれから30年コーチをやってますが、まだ会ったことがない」

 それが、細木コーチと錦織圭の出会いだった。

   ※   ※   ※   ※   ※

 少年時代の錦織圭を指導し、愛娘の細木咲良(さくら)もプロ選手に育てた細木氏自身が、硬式テニスを始めたのは高校生の時。中学生までは軟式テニスをやっていたが、当時の顧問に「お前は硬式向きだ」と勧められ、進学と同時に硬式に転向した。

 同じ「テニス」とつくものの、軟式と硬式では、別競技と言えるほどに特性は異なる。出遅れた自分が限られた時間でいかに上達できるかと考えた時、細木氏は「一番自信があるフォアハンドを伸ばそう」と決めた。

 はたして最大の武器を磨き、島根県内では他校の生徒たちからも「細木のフォアはヤバい」と警戒されるまでになる。

ただ、県内で一位になれても、全国に出れば、幼少期から硬式テニスをやっているエリートたちに歯が立たなかった。

 それでも「テニスで生きていきたい」と思った細木氏は、高校卒業と同時に広島のテニススクールでコーチ業を学び、数年後に帰郷。当時、ジュニア育成で成果を出し始めたグリーンテニススクールの門を叩き、柏井コーチの下で働き始めた。

【けっこう大人気ないこともした】

 指導者としての細木氏の理念は、自身が硬式テニスを始めた時の方針と同様に、「長所を伸ばす」こと。錦織圭と出会った時も、当時20代半ばだった若きコーチは、この金の卵の最大の武器は何かと、じっくり観察した。

「圭と最初に会った時から、こいつの個性ってなんだろうって思って、ずっと見ていました。そして見つけたのが、相手を分析する力。試合全体を上から見て、自分自身も、そして対戦相手のことも、テレビゲームのプレーヤーキャラのようにコントロールしているところがあった。これって小さい頃も、今も、ずっと一緒だなぁって思います。

 圭を最初に見た時は、どうしてもテクニックのほうに目が行きがちでした。でも、冷静になって考えてみたら、テクニックはあとからでも身につくし、僕の時代でも全国でうまい人はたくさんいた。それよりも圭の場合は、テクニックをゲームのなかで生かす能力を伸ばしていくほうが、成長が早いだろうなって思ったんです」

 では、どうすればその「武器」を磨けるか? 細木氏が出した答えは、「実戦」だ。

「僕が圭とやっていたのは、とにかく試合。

レッスンのない空いた時間は、ずっと圭と試合をやっていました。圭も『コーチとは、何百試合もしました』って言っていましたが、そのくらいやったんです。そのなかで『圭はどんなことを考えてるのかな』とか、『僕がこうしたら、こいつは何をやってくるだろう』と観察しながら......」

 細木コーチはこうも振り返る。

「まあ、けっこう大人気ないこともしましたよ」

 そう言いコーチは、ワハハハと笑った。

「圭のお父さんには、『もうちょっとテクニックや、ポイントパターンを教えてあげてよ』と言われもしましたが、でもたぶん、こいつの持ってる考え方の引き出しを増やすことのほうが、僕がすべきことだろうなと思って。

 毎回、ちょっと意地悪なこともしましたね。そこから圭が、何をどれくらい感じたかはわかりません。でもまあ、毎回負けたらすぐに連絡が来ましてね」

【圭は試合全体を考えて試してくる】

 負けた時の圭少年は、ふてくされて帰っていくが、しばらくするとスクールに電話をかけてくる。

「ちょっとコーチ。もう1試合やろう」

 用件は、いつも同じ。

「いやな、お前は練習して、休憩してから俺との試合だけれど、俺はレッスン、レッスン、お前との試合でレッスンなんだから、ちょっとはそこも考えよ。これ、毎日は俺、きついぞ!」

 時にはそんな愚痴もこぼすが、圭はしれっと「だってコーチ、この時間はレッスンないから空いてるでしょ?」と電話口で返してくる。

「こいつ、俺のスケジュールを把握したうえで言ってきているのか。なんか俺、うまく操られているな......」

 胸のうちで苦笑いしつつも、細木コーチは毎回、圭少年の待つコートへと向かった。

「僕としても、圭とやる時は毎回、テーマを考えるんです。

 たとえば、ひとつの作戦やポイントパターンで僕が勝ったとして、次に圭が挑んできた場合は、まずは同じやり方で試合をする。すると圭も、たぶん『これ、さっきやったパターンに似てるな』と気がつく。『さっきはクロスに打ってやられたから、今度はストレートに打ったほうがいいかな』というふうに対応してくるので、こちらも『お! さっきと違うことをしてきたな』とわかるんですよ。

『さっきはうまくできなかったことを、もう一回、ちゃんとトライしてできるようになってるな』とか、『うまくいかなかったことをもう一度やってもダメだろうと感じて、まったく違うテニスをしてきたな』とか。

 僕としても、『このままやっていても圭は自分の弱点に気がつかないだろうから、違うパターンの試合展開をしてみよう』とかいろいろと考える。小学生の子どもは大人と試合をすると、たいがい1ポイントでも取りたいから、一生懸命、がむしゃらに全力でボールを打ってくるんです。でも圭は、完全に試合全体を考えていろいろ試してくる」

 だから......、と細木コーチは目じりを下げ、噛みしめるように言った。

「面白い。こっちも、面白いんですよ」

 ネットを挟み、打ち合うボールを通じて意志を交わし、思考を読み合いながら、互いの人間性をも感得する──。

 そんな濃密なコミュニケーションは、錦織が海を渡る13歳の日まで、毎日のように続いたという。

(つづく)

◆細木秀樹の視点(2)>>「この金の卵を絶対に潰してはいけない」


【profile】
細木秀樹(ほそぎ・ひでき)
1974年11月5日生まれ。松江第一高校 (現・開星高校)出身。広島県のRCCルーデンステニスクラブにて2年間の実績を積んだあと、現在に至るまで島根県松江市のグリーンテニススクールにてコーチとして活動中。錦織圭を5歳から指導し、全国小学生テニス大会、全日本ジュニアテニス選手権、全国選抜テニスなど、さまざまな全国大会で優勝に導く。実子の細木咲良も松江市開催の2016年インターハイ優勝者で現在はプロとして活動。今も多くの教え子たちがジュニア大会や中・高校の全国大会等で活躍する。

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