Jリーグ懐かしの助っ人外国人選手たち
【第23回】ウェズレイ
名古屋グランパスサンフレッチェ広島大分トリニータ

 Jリーグ30数年の歩みは、「助っ人外国人」の歴史でもある。ある者はプロフェッショナリズムの伝道者として、ある者はタイトル獲得のキーマンとして、またある者は観衆を魅了するアーティストとして、Jリーグの競技力向上とサッカー文化の浸透に寄与した。

Jリーグの歴史に刻印された外国人選手を、1993年の開幕当時から取材を続けている戸塚啓氏が紹介する。

 第23回はウェズレイを取り上げる。名古屋グランパス、サンフレッチェ広島、大分トリニータでプレーしたこのブラジル人ストライカーは、9シーズン半の実働で6度のふた桁得点を記録した。グランパスに在籍した2003年には得点王にも輝いている。外国人ではわずかふたりだけの「J1通算100ゴール以上」を記録した選手でもある。

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【Jリーグ】ゴール後の「弓を射るパフォーマンス」元祖はウェズ...の画像はこちら >>
「ウェズレイ」という名前を聞いて、あなたはどのユニフォームを連想するだろうか。名古屋グランパス? サンフレッチェ広島? それとも大分トリニータ? どのチームでも彼は、外国人ストライカーに求められる数字を残していった。

 最初に在籍したグランパスでは、強烈なインパクトを残した。2000年7月に加入すると、ピクシーことドラガン・ストイコヴィッチと2トップを組み、9試合出場で7ゴールを記録した。

 加入2年目の2001年シーズンは、第1ステージ終了をもってピクシーが現役を退いた。ウェズレイは攻撃の新たな牽引役となり、得点ランク2位タイの21ゴールをマークした。

 翌2002年からは背番号10を着けた。

オーストリア代表のイヴィツァ・ヴァスティッチと2トップを組み、得点ランク3位の20得点を叩き出す。2トップのパートナーが誰でも、コンスタントにゴールを量産できるのが彼の強みだった。

【2003年は22ゴールで得点王】

 その裏づけとなったのが、多彩なゴールパターンである。

 177cm、89kgの数字以上に、フィジカルは屈強だった。重戦車やブルドーザーをイメージさせ、競り合いで当たり負けするシーンは、ほぼ見たことがない。パワフルなシュートはGK泣かせだった。

 同時に、技巧的でもあった。ゴール前の狭いスペースでもしっかりとボールをコントロールし、狙いすましたコントロールショットでも得点を重ねた。また、直接FKの担い手でもあった。

 2003年はヴァスティッチから同胞マルケスへパートナーが変わり、ウェズレイはグラウ(ジュビロ磐田)やエメルソン(浦和レッズ)を抑えて22ゴールで得点王を射止める。ベストイレブンにも選出された。

 Jリーグ30有余年の歴史で、3シーズン連続で20得点以上を記録したのはウェズレイだけである。歴代最多得点の大久保嘉人も、2位の興梠慎三も、3位の佐藤寿人も4位の中山雅史も、外国人歴代最多得点のマルキーニョスも、成し遂げていない。

知られざる大記録と言っていいだろう。

 2004年は10ゴールにとどまったが、マルケスが17得点を記録した。振り返れば2001年は森山泰行が12得点、2002年はヴァスティッチが10得点をあげた。2トップのパートナーも数字を残すのは、ウェズレイという選手のもうひとつの側面を表わしている。

 本人に聞くと、こんな答えが返ってきた。得点王を獲得した2003年シーズンに明かした思いである。

「自分がゴールを狙えるのなら、シュートを打つことにためらいはない。得点を取ることは、自分にとって最高の喜びだからね。でも、何よりも優先されるのは、チームの勝利だ。チームが勝つことで自分の得点の価値も上がる、というのが私の考えなんだ」

 翌2005年のシーズン開幕直後に、ネルシーニョ監督との確執などからチームを去った。母国ブラジルでプレーしていた彼に、サンフレッチェからオファーが届く。2006年から紫のユニフォームに袖を通すと、新天地デビュー戦でいきなり2ゴールを叩き出した。

 ゴール後に弓矢を射るパフォーマンスも、デビュー戦で披露している。サンフレッチェからJリーグ全体へと広がり、今でも愛されるあのパフォーマンスは、彼こそが元祖なのである。

【J2降格で広島から大分へ】

 サンフレッチェでは佐藤寿人と2トップを組んだ。ポストプレーにも長けたウェズレイが最前線でどっしりと構え、すでにリーグ屈指のワンタッチゴーラーとなっていた佐藤が抜群の得点嗅覚を発揮する。互いの長所を引き出す最高のコンビだった。

 ウェズレイも相性のよさを認めている。笑いながら話した。

「自分がいなくても、ヒサトなら点が取れる。彼はすばらしいストライカーだ。ただ、自分がいることで、より多く、ほんの少しだけラクに点が取れるかもしれないね」

 2006年は佐藤が18ゴール、ウェズレイが16ゴールを記録した。チーム総得点「50」の7割近くを、ふたりで叩き出した。優れたクロッサーとしての駒野友一や服部公太、パスセンスに優れる柏木陽介や青山敏弘、さらには森﨑浩司らの存在も、ウェズレイと佐藤の決定力を際立たせた。

 2007年もウェズレイは17ゴールをマークし、佐藤寿人も12得点を記録した。しかし、チームは16位にとどまり、京都サンガとの入れ替え戦に敗れてJ2降格となってしまう。経営改善をはかっていたクラブは、ウェズレイとの契約を更新しないことを選んだ。

 翌2008年は、大分トリニータの一員となる。

 ブラジル人指揮官シャムスカのもとでリーグナンバー1の堅守を構築したチームは、クラブ史上初のタイトルとなるリーグカップを獲得した。ウェズレイは古巣グランパスとの準決勝・第2戦で決勝ゴールを叩き出した。清水エスパルスとの決勝戦でも、90分に勝利を決定づける、2点目を決めている。

 試合後には声を弾ませた。

「クラブにとって初めてタイトルをつかんだ試合に出場して、ゴールを決めることができた。私自身のキャリアにおいても、忘れられない試合になりました」

 すでに36歳である。ウェズレイはこのシーズン限りでの引退を考えていたが、クラブに慰留されて2009年もスパイクを履いた。しかし、ケガによるコンディションへの不安、ブラジルに住む家族との生活などを理由に、8月に現役引退を発表した。

 J1リーグ通算124ゴールは、歴代9位に位置する。出場試合数あたりの1試合平均得点率「0.571」は、並み居るストライカーを抑えてナンバー1だ。Jリーグでプレーした助っ人外国人のなかでも、チームに対する貢献度はトップクラスと言って差し支えない。

 愛称「ピチブー」は、英語で言うところの「ピットブル」である。豪快で屈強なプレースタイルは「闘犬」の異名にふさわしかったが、素顔の彼は人懐っこい笑顔が印象的だった。ピッチ内とのギャップもまた、ウェズレイが日本のファン・サポーターに愛された理由なのだろう。

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