【連載】Jリーグ語り草(4)
森島寛晃の2005年
「長居の悲劇は避けられなかったのか」前編
電光掲示板の時計の表示が消え、試合はロスタイムに突入していた。あと数分、ゴールを守り抜けば、悲願の初優勝をつかみ取れる。
しかし、待ち受けていたのは、あまりにも残酷な結末だった。
CKのこぼれ球に反応したFC東京の今野泰幸が放った左足シュートは、ゴール前に構えていたセレッソ大阪の選手たちの足もとを次々にすり抜け、ネットへと吸い込まれていった。
刹那、ピンクのユニホームが次々にピッチに倒れ込む。ある者は頭を抱え、ある者は呆然と一点を見つめ、ある者はピッチに拳を叩きつけ、咆哮した。
つかみかけていた栄光は、目前でこぼれ落ちていった。2005年12月3日、長居スタジアムはJリーグ史上最大の悲劇の舞台となった。
「もう20年も経ちますか」森島寛晃は懐かしそうに、当時の情景を思い起こした。
クラブの象徴的存在だった「ミスターセレッソ」は、今ではクラブの会長職を務めている。その物腰は「日本一腰の低いJリーガー」と呼ばれた当時と変わらない。あるいは忘れたいほどの試合だったかもしれないが、少しずつ記憶を呼び起こしながら、20年前の出来事を気さくに語り始めた。
2005年のセレッソは、開幕前から不安がつきまとっていた。前年に残留争いを強いられながら、残留の立役者となった大久保嘉人がスペインのマジョルカへと移籍。
「3連敗もしましたっけ?」
森島は苦笑いを浮かべる。
「でも、結果は出ていなかったですけど、内容は意外と手応えがあったんですよ。周りからは大丈夫かなと思われていたんでしょうけど、僕らとしてはやれる感じはありましたね」
前年の途中から指揮を執り、チームを残留に導いた小林伸二監督の下、2005年のセレッソは手堅いチームだったという印象がある。堅守速攻のスタイルが、この年のセレッソの戦い方だった。
【守備をがんばった印象はない】
「小林監督はたしかに細やかでしたね。相手のやり方だったり、選手の特徴をしっかりと伝えてくれましたし、時間をかけながらいろいろ準備をする監督だったので、ミーティング時間は長いほうでしたね(笑)」
伝統的に攻撃スタイルを標榜してきたセレッソにとっては、ややタイプの異なる指揮官だった。ましてや攻撃的な選手である森島にとって、3-4-2-1の布陣による守備を重視するスタイルにストレスを感じる部分があったのではないか。
「いや、意外とそんなことはなかったんですよ。堅くいくところもありましたけど、チームとしてやるべきものが整理されていましたから。
もちろん、守備の安定がなければ攻撃もできません。逆に守備のところのバランスをしっかりと整えてくれたから、攻撃にもスムーズにいけたんですよね。
たしかに攻める機会は少なかったかもしれないですけど、ウイングバックと絡みながら、コンビネーションで崩していく楽しさはありました。自分がサッカーをやっていたなかでも2005年は面白いゲームができていたシーズンだったなって思っています」
森島のポジティブな記憶を後押しするのは、結果がついてきたことと、もちろん無関係ではない。開幕3連敗を喫したセレッソだったが、4節の名古屋グランパス戦で森島のゴールを守り抜きシーズン初勝利を挙げると、そこから8試合負けなしを記録。得点力に乏しく勝ちきれない試合も多かったが、安定した守備を保ち、着実に勝ち点を積み上げていった。
「たしかに負けていないから、楽しかった部分もあったと思います。当時の記録を見ると、あまり点は取れていないんですが、けっこう崩す場面も作れた印象ですし、ボールが動いた感じがあるんですよね。前からの守備も求められていましたけど、やることが整理されていたので、自分のなかでは『守備をがんばった』という印象はあまりないんですよ」
【負けないサッカーで手応えをつかむ】
そのスタイルを可能とした選手たちの奮闘も見逃せない。
「最終ラインにはブルーノ(・クアドロス)がいて、ボランチのファビーニョもいい選手でした。左サイドのゼ・カルロスも攻撃的な選手でしたし、彼らがあのやり方にけっこうハマっていて、いいサッカーができていましたね」
ブラジル人トリオだけではない。最終ラインの一角を務めた前田和哉は大卒ルーキーながら堂々たるプレーを見せ、ファビーニョと中盤でコンビを組んだ下村東美は質の高いフィードで攻撃を操った。
森島と同じシャドーの位置では古橋達弥が存在感を放ち、柳本啓成、久藤清一、吉田宗弘らベテランもいぶし銀の働きを見せた。そしてなにより、大黒柱の西澤明訓がこのチームを力強く牽引した。
負けないサッカーを続けるなかで手応えをつかみ、このスタイルに対する自信を深めていったセレッソは、ライバルのガンバ大阪にこそ2試合ともに完敗を喫したものの、19節から再び無敗街道を突き進んでいく。22節からは破竹の7連勝を達成するなど、最大13ポイントあった首位のガンバとの勝ち点差は、残り3試合で1ポイントにまで詰めた。
もっとも、32節の大分トリニータ戦ではシーズン途中から覚醒したファビーニョのゴールで先制しながら、80分に追いつかれて1-1で引き分けた。さらに33節の横浜F・マリノス戦でも森島のゴールで先制したものの、再び終了間際の失点で勝ちきれなかった。
「マリノス戦のゴールは覚えていますよ。ヘディングでのロングシュートだったので(笑)。でも、最後に追いつかれたんですよね。大分戦もそうでしたけど、終盤戦はなかなか勝てなかったですね。
優勝争いのプレッシャーがあったわけではないと思います。僕らは追いかける立場でしたから。負けたわけではないですし、むしろ1ポイントでも取れたことを前向きに捉えていた気がします。実際にマリノスに引き分けたことで、首位に立ちましたから」
【最終節は5チームが優勝する可能性】
終盤に足踏みを強いられたのは、セレッソだけではなかった。
初優勝に向けて突き進んでいたガンバだったが、28節から2連敗を喫すると、31節からまさかの3連敗。22節から守り続けていた首位の座を明け渡すことになったのだ。
この年の優勝争いは、まさにカオスだった。最終節を前に首位に立ったのはセレッソだったが、勝ち点1差でガンバが2位につけ、同勝ち点で並ぶ3位の浦和レッズ、4位の鹿島アントラーズ、5位のジェフユナイテッド千葉の3チームがさらに1ポイント差で追いかける構図となっていた。
つまり、5チームが優勝の可能性を残したまま、最終節を迎えることとなったのだ。
33節にして初めて首位に立ったセレッソは、ついに追われる立場となった。追われる側の重圧がそこにはあったと想像がつく。ところが、森島は首を振って、こう言った。
「僕らには2000年の経験がありましたから」
このシーズンの5年前、セレッソは同じように最終節を前に首位に立ち、ファーストステージの優勝に王手をかけていた。
しかし、長居スタジアムに下位に沈む川崎フロンターレを迎えた一戦は、後半立ち上がりに先制されると、一度は西澤のゴールで追いついたものの、1-1で迎えた延長後半の106分に浦田尚希のVゴールに屈し、マリノスに優勝を譲ることとなった。
「2000年の時は選手もそうですけど、チームとしての経験値があまりにも足りていなかったと思います。
結果的には優勝を逃したわけで、経験が生かされたというのもどうかと思いますが、浮き足立って試合に入った2000年とは違って、2005年は勝利を手にするために何をすべきかを理解したうえで、試合に向かうことができました」
あれよあれよと浮上した5年前とは異なり、森島とセレッソは平常心でFC東京との最終決戦に臨んだ。
(文中敬称略/つづく)
◆森島寛晃・中編>>西澤明訓の鬼気迫るプレー「表情がまるで違っていた」
【profile】
森島寛晃(もりしま・ひろあき)
1972年4月30日生まれ、広島県広島市出身。1991年に東海大一高(現・東海大静岡翔洋高)から当時JSL2部ヤンマーディーゼル(1994年~セレッソ大阪)に入団。プロ2年目には主力として活躍し、1995年にはJリーグ参入初年度でベストイレブンに選出される。2008年に現役を引退するまで移籍することなく「セレッソの象徴」として君臨。引退後はチームのアンバサダーや編成・スカウティングに携わったのち、2018年に株式会社セレッソ大阪の代表取締役社長に就任。2025年4月より会長職。日本代表として1998年と2002年のワールドカップに出場。通算64試合12得点。ポジション=MF。身長168cm。

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