【連載】Jリーグ語り草(4)
森島寛晃の2005年
「長居の悲劇は避けられなかったのか」中編

◆森島寛晃・前編>>「長居の悲劇」から20年。最終節も重圧はなかった

 2005年12月3日、大阪は快晴だった。

冬の冷たい空気と程よい緊張感が、満員に膨れ上がった長居スタジアムを包み込んでいた。

 森島寛晃は今度こその想いを胸に、ピッチに立っていた。

「勝てば優勝という状況だったので、緊張感はありましたけど、ガチガチに硬くなっていたわけではありません。2000年の時は試合前から優勝した場合の話を持ち出したり、気持ちが浮ついていたんですよね。でもこの時は、緩んだ空気は一切なくて、チーム全体で勝つことだけを考えていました」

【Jリーグ】森島寛晃が驚いたエース西澤明訓の鬼気迫るプレー「...の画像はこちら >>
 ステージ優勝を逃した5年前は、チーム内だけでなく、周囲にも弛緩した空気が漂っていた。

「ふだんは練習場に記者なんてほとんどいないのに、あの時は見たことないくらいの数が来ていましたね。最終節の相手は下位に沈んでいた川崎だったのもあって、なんとなく試合前から優勝した雰囲気だったんですよ。集中して準備できなかったし、隙が生まれていたのは間違いないと思います。優勝したこともないのに、僕らは勘違いしていましたね」

 その苦い経験があったからこそ、2005年のセレッソは優勝がかかった大一番であっても、平常心を失うことなく、ふだんどおりに試合に臨むことができていた。

 14時4分。キックオフの笛が響き渡ると、ピンクのユニホームは果敢に相手ゴールに迫っていった。

 そして開始から、わずか3分後のことだった。

右サイドの久藤清一のクロスを、中で待ち受けていた西澤明訓が打点の高いヘッドで合わせ、いきなり先制することに成功した。

「アキ(西澤)がいきなり点を取ってくれて、あれで勢いが出ましたね。アキはああいう大事な試合で必ず点を取ってくれるんですよ。本当に頼りになる選手でした」

 たしかにこの日の西澤は、神がかっていた。髪を金色に染めたストライカーは持ち前の技術と高さに加え、前線からの守備でも奮闘。セレッソにタイトルをもたらすために、鬼気迫るプレーでチームを引っ張った。その姿に森島も驚きを隠せなかったという。

「今までとは表情がまるで違っていましたね。この試合にかける想いをすごく感じましたし、ふだんはあまり感情を表に出さないですけど、先制点を決めた時は感情を爆発させていましたから。自分が勝たせるという想いを強く感じましたし、アキのプレーに僕らが乗せられたところはあったと思います」

【苦楽をともにしたモリシのために】

 試合前日、西澤は報道陣に対してこんなコメントを残していた。

「モリシは今まで4回優勝のチャンスを逃してきた。さすがに5回も負けたらかわいそうだし、僕は3回目。ここできっちり勝っておかないと、一生負け犬になると思っている」

 2000年のステージ優勝を逃しただけではない。

セレッソはそれまでに、何度もタイトルに迫りながら勝ち取れなかった歴史を繰り返してきた。

 1994年を皮切りに、2001年、2003年と天皇杯の決勝の舞台に立ちながら、いずれも涙を呑んでいる。1991年に前身のヤンマーディーゼルサッカー部に入部して以降、セレッソひと筋でプレーしてきた森島は、そのすべてを経験している。

「モリシのために」

 長年、苦楽をともにしてきた盟友にタイトルをもたらしたい。西澤のプレーからは、そんな覚悟さえ見て取れた。

 西澤に導かれるように、この日のセレッソは、終了間際に追いつかれた過去2試合とはまるで姿を変えていた。1点を守りきろうという消極的な戦いではなく、ハイプレッシャーを保ちながら、前へと向かっていく。その分、当然リスクはあったが、攻め抜くことで勝利を求めていったのだ。

 20分に鈴木規郎の豪快な一撃で同点とされたものの、誰ひとり下を向く選手はいなかった。その後に獲得したPKのチャンスをゼ・カルロスが失敗しても意欲は失われず、勝ち越し点を奪うために攻めの姿勢を貫いた。

 そして1-1で迎えた後半立ち上がりの48分、再びこの男が大仕事をやってのける。ゼ・カルロスのシュートのこぼれ球は、逆サイドに待ち受けていた西澤のもとへ。

頼れるエースは巧みなトラップから右足を振り抜き、鮮やかな一撃をネットに突き刺したのだ。

「もうやるしかない状況でしたからね。球際でしっかり戦えたし、しっかりと点も取れましたから。追いつかれても、もう1回引き離すことができた。アキの2点目で再び勢いが生まれたし、ギアがもう1段階上がった気がします」

【ロスタイム直前のCKに嫌な予感】

 再びリードを奪ったセレッソは、積極性を失うことはなかった。持ち前の堅守を保ちながら、相手の隙をうかがって追加点を狙いにいった。しかし、次第に足が止まり始める。そして残り10分を過ぎたあたりから、長身DFジャーンを前線に上げてパワープレーを仕掛けてきたFC東京の攻撃をもろに受け、いつしか防戦一方となった。

 しかし、ここでも存在感を放ったのが西澤だった。自陣へと戻りジャーンを監視しながら、送り込まれるフィードを次々に跳ね返していく。まるで老獪なDFのように、ゴール前で身体を張り続けた。 

「それもアキのすごいところなんですよね。勝負どころでは必ず身体が張れるんですよ。

点を取るだけじゃなくて、勝利のために闘える選手でした」

 森島も同様に、守備に奔走した。前線からプレスをかけ、球際では身体を張る。33歳のチーム最年長もまた勝利のために、誰よりもピッチを走り続けた。

 82分、森島は徳重隆明と代わって、ピッチをあとにする。

「自分のなかでは『やれることはやった』という気持ちでしたね。思いきり走って、守備をして、すべての力を出しきったと思います。

 最後までプレーしたいという想いもありましたけど、最終的に走れなくなって、動きが悪くなったから交代させられたと思うので、代えられたことに何か思うことはありません。実際にもうほとんど走れなかったですからね。とにかくがんばってくれ、という気持ちだけでしたよ。『勝ってくれ』と願いながら、ベンチで見ていたことを覚えています」

 時計の針は着実に時を刻んでいく。あと少し耐えしのげば、栄光を掴むことができる。ところがロスタイム直前にCKを与えてしまう。

この時、森島は嫌な予感がしたという。 

「絶対にみんな集中しているはずですし、やられたらいけないところだというのは、誰もが理解しているわけですよ。だけど、最後の最後にCKを与えてしまった。なんとなく嫌な流れだなって思ってしまったんですよ」

【立ち向かう余力は残ってなかった】

 電光掲示板の表示が消え、あとはロスタイムを残すのみだった。このCKをしのぎさえすれば、悲願のリーグ優勝を実現できるはずだった。

 右からのCK、キッカーの宮沢正史がマイナス気味のボールを送り込むと、エリア内の近藤祐介が右足で合わせる。そのシュートはゴール前に構えていた古橋達弥が身体を張ってブロック。跳ね返ったボールを柳本啓成がヘディングでクリアするが、距離が伸びなかった。

 そこに反応したのは、今野泰幸だった。胸トラップから左足を一閃。西澤が懸命に足を伸ばすが、わずかに届かない。柳本、古橋の足もとを低弾道のボールが通過する。

守護神の吉田宗弘が左に飛んで手を伸ばしたが、指先をかすめたボールは無情にもネットに吸い込まれていった。

 長居スタジアムには悲鳴と歓声が交錯し、選手たちはバタバタとピッチに倒れ込んだ。そしてベンチにいた森島は信じられないといった表情で頭を抱え、呆然とピッチを見つめた。

 試合時間はまだわずかに残っていた。しかし、セレッソの選手たちにもはや立ち向かう余力は残されていなかった。

 間もなく鳴り響くタイムアップの笛──。それからしばらくして、電光掲示板に他会場の結果が表示された。

「川崎 2-4 G大阪」

 セレッソに訪れた結末は、5年前と同じだった。

(文中敬称略/つづく)

◆森島寛晃・後編>>「ガンバだけには絶対に負けたくなかったのに...」


【profile】
森島寛晃(もりしま・ひろあき)
1972年4月30日生まれ、広島県広島市出身。1991年に東海大一高(現・東海大静岡翔洋高)から当時JSL2部ヤンマーディーゼル(1994年~セレッソ大阪)に入団。プロ2年目には主力として活躍し、1995年にはJリーグ参入初年度でベストイレブンに選出される。2008年に現役を引退するまで移籍することなく「セレッソの象徴」として君臨。引退後はチームのアンバサダーや編成・スカウティングに携わったのち、2018年に株式会社セレッソ大阪の代表取締役社長に就任。2025年4月より会長職。日本代表として1998年と2002年のワールドカップに出場。通算64試合12得点。ポジション=MF。身長168cm。

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