【連載】Jリーグ語り草(4)
森島寛晃の2005年
「長居の悲劇は避けられなかったのか」後編

◆森島寛晃・前編>>「長居の悲劇」から20年。最終節も重圧はなかった

◆森島寛晃・中編>>西澤明訓の鬼気迫るプレー「表情がまるで違っていた」

 森島寛晃は今でも、あのシーンを鮮明に覚えている。

「何度も映像で見ているのもありますけど、忘れることはできないですね。本当にスローモーションなんですよ。何であれが入っちゃうんだろうって。あれだけゴール前に人がいるのに、誰にも当たらずに、スッとボールが吸い込まれていったんです。

 劇的なシーンが起きる時は、得てしてそういうものなのかもしれないですね。ゴール前でごちゃごちゃっとして、なんだかわからないうちに入ってしまう。ただ今見ても、あれが入ってしまったのは不思議でしょうがないですね」

【Jリーグ】森島寛晃「ガンバだけには絶対に負けたくなかったの...の画像はこちら >>
 頭が真っ白になるほどのショックだったという。ただし、涙は流れなかった。

「もちろん勝てなかったから、もっとやれることはあったと思います。当然、悔しさもありましたし、やってしまったなとも思いましたけど、自分の記憶が正しければ、あの時は泣かなかったですね。

 2000年の時は泣いたんですけど、2005年はたぶん泣いていない。しっかりと準備をして、勝利を目指して戦い抜くことができた。

後悔なく、やりきった感があったから、涙は出ませんでした」

 すべてを出しきったにもかかわらず、勝つことができなかった。単純に力が足りなかったから優勝できなかったと理解している。だから実際には引き分けだったが、森島にはこの試合で「負けてしまった」というイメージが強く残っている。

「負けてないんですよね。でも、僕はずっと負けたと思っていました。今もこうやって話しながら、途中まで負けていたと思っていたくらいで。それくらいあの1点は重かったし、大きなものを失いましたからね。

 負けてないのに、最終的に僕らは5位まで落ちたんですよ。もちろん優勝できなければ2位でも5位でも変わらないですけど、それくらいダメージの大きい1点でした」

 上位5チームが優勝の可能性を残したリーグ戦は、最終節にセレッソ以外の4チームが勝利を収め、首位だったセレッソは5位にまで転落。頂点に立ったのはガンバだった。

【最終節が大きな分かれ道になった】

 優勝を逃したことに加え、同じ大阪のライバルチームにタイトルを譲り渡したことも、セレッソの悲劇にさらなる追い打ちをかけた。

「それも悔しかったですよ。ガンバのほうが先にJリーグにいて、セレッソがJリーグに上がった時に、周りから『大阪にJリーグのチームはふたつもいらないんじゃないか』と言われました。

セレッソの名前もなかなか覚えてもらえなかったり、そういう悔しい経験をしてきたので、『ガンバだけには絶対に負けたくない』っていう思いをずっと持ちながらやっていました。

 それは僕だけじゃなくて、ほかのチームメイトもそうですし、アカデミーの選手たちにもそういう意識はあったと思います。絶対に負けられない相手に先を行かれてしまったという悔しさは当然ありますよ」  

 ガンバはこの初優勝を機に、強豪クラブへの道を歩んでいった。一方のセレッソは翌年に降格を味わうと、3年間のJ2生活を経験。2014年にも再び降格するなど、浮き沈みの激しい歴史を辿っている。

「ガンバはあそこで優勝して、そこから数々のタイトルを獲るようなチームになっていきました。だから今思うと、あそこはセレッソにとっても、すごく大事な局面だったんですよ。あそこで獲るか、獲れないかで未来が変わっていたかもしれない。その意味ではあの最終節が、大きな分かれ道になったんだと思います」

 たしかにあれは、悲劇だった。しかし、運だけでは片づけられないものがあるのも、またたしかだろう。勝ちきれなかった原因があるとすれば、セレッソにはいったい何が足りなかったのか。

「あと少し守り抜けばよかったということを考えれば、試合の締め方だったり、時間を使うずる賢さといった部分は、勝つために必要だったと思います。

綺麗じゃなくても、勝ちきるための戦い方というものができなかったんでしょうね。

 最後の最後に相手に隙を与えてしまったわけで、少なくとも勝つための意識の徹底ができていなかったとも思います。もう1点を取って仕留めきることもできなかったわけで、みんな一生懸命戦いましたけど、勝負へのこだわりが足りなかったのかもしれないですね」

【タイトルを手にすることなく引退】

 優勝することの難しさを、森島はあらためて痛感したという。

「優勝経験があれば、また違ったかもしれないですね。タラレバですけど、最終節の前にマリノスに勝ちきっていれば、あんな悲劇は起きなかったわけで。優勝経験のあるチームって、大事な試合で勝ちきることができるんですよ。そのために何をすればいいのかを、全員が理解している。

 よくアントラーズには『勝者のメンタリティがある』と言われますけど、それは日々の積み重ねなんだと思います。何度も優勝することによって、さらにそれは高まっていくんでしょうね。フロンターレやヴィッセルもそうですよね。一度優勝したことで、さらに上を目指して強くなっていく。だからセレッソも早く、リーグ戦での優勝を実現したいですね」

 長居の悲劇から3年後の2008年、森島は18年に渡る現役生活に幕を下ろした。ベストイレブンは2度受賞したものの、ついにタイトルを手にすることができないまま、ユニフォームを脱ぐことになった。

「優勝したかったですね。天皇杯では何度も決勝で負けましたけど、やっぱりリーグ優勝を成し遂げられなかったのが、一番悔しいです。本当にあと一歩のところでしたから。また勝てなかったなって、あの時は思いましたね」

 森島の引退後、セレッソは悲願のタイトルを獲得した。2017年に川崎を下して、ルヴァンカップの王者となったのだ。さらに同年の天皇杯も制し、2冠を達成している。

「やっぱり、あの時の選手たちは自信がみなぎっていましたね。点を取られても、絶対に逆転できるような雰囲気がありましたから。特にルヴァンを勝ったあとの天皇杯は、劇的な勝ち方だったんですよ。外から見ていても、頼もしさを感じました。

 ずっと『シルバーコレクター』と呼ばれてきましたけど、セレッソの選手たちが一番高いところに立つ光景を見られたのは、本当に誇らしかった。僕はずっと、夢見ていましたから」

【会長となったミスターセレッソの夢】

 シルバーコレクターの汚名を返上したセレッソだが、リーグ優勝はまだ成し遂げられていない。

クラブと森島の次なる夢は、やはりリーグ制覇だ。

「ルヴァンも天皇杯も獲ったので、あとはリーグ優勝しかないですね。先ほども言いましたけど、やっぱりリーグ優勝をすることで、チームはさらに強くなっていくと思います。

 年末にJリーグアウォーズに行くと、優勝した選手たちがみんな表彰式に出られるじゃないですか。みんなで壇上に上がる姿を見ると、うらやましいなと思います。だから、セレッソの選手たちが主役となった表彰式を早く見たいですね。Jリーグアウォーズを見るたびに、毎回、そう思います」

 20年前にたどり着けなかった場所へ──。会長となった「ミスターセレッソ」は、愛するクラブの明るい未来をはっきりと思い描いている。

<文中敬称略/了>


【profile】
森島寛晃(もりしま・ひろあき)
1972年4月30日生まれ、広島県広島市出身。1991年に東海大一高(現・東海大静岡翔洋高)から当時JSL2部ヤンマーディーゼル(1994年~セレッソ大阪)に入団。プロ2年目には主力として活躍し、1995年にはJリーグ参入初年度でベストイレブンに選出される。2008年に現役を引退するまで移籍することなく「セレッソの象徴」として君臨。

引退後はチームのアンバサダーや編成・スカウティングに携わったのち、2018年に株式会社セレッソ大阪の代表取締役社長に就任。2025年4月より会長職。日本代表として1998年と2002年のワールドカップに出場。通算64試合12得点。ポジション=MF。身長168cm。

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