語り継がれる日本ラグビーの「レガシー」たち
【第40回・最終回】宿澤広朗
(熊谷高→早稲田大)

 ラグビーの魅力に一度でもハマると、もう抜け出せない。憧れたラガーマンのプレーは、ずっと鮮明に覚えている。

だから、ファンは皆、語り継ぎたくなる。

 最終回となる連載40回目は、それにふさわしい男を取り上げたい。早稲田大学の名SHとして2度の日本一に貢献し、社会人では銀行マンとの「二足のわらじ」を履きながら日本代表指揮官として世界に挑んだ男──。日本ラグビー史を塗り替えた「名将」宿澤広朗(しゅくざわ・ひろあき)である。

※ポジションの略称=HO(フッカー)、PR(プロップ)、LO(ロック)、FL(フランカー)、No.8(ナンバーエイト)、SH(スクラムハーフ)、SO(スタンドオフ)、CTB(センター)、WTB(ウイング)、FB(フルバック)

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ラグビー日本代表・宿澤広朗が遺した勝利の哲学 シビアな銀行マ...の画像はこちら >>
 宿澤の真骨頂といえば、やはり1989年5月のスコットランド戦だろう。日本代表監督として、史上初めて同国から「28-24」で金星を挙げたあの一戦だ。

 当時の日本代表は、強豪相手に善戦はすれど勝ちきれない、悪いサイクルから抜け出せずにいた。そんな停滞ムードのなか、キャップ数わずか「3」の宿澤が代表監督に抜擢される。ロンドンなど世界の金融最前線で活躍していた「銀行マン」に対し、現場経験の少なさを危惧する声もあった。だが、宿澤に迷いはなかった。

 就任直後、さっそく着手したのは現実の直視だ。体格で劣り、フィジカルで押しきられる日本が、世界の真似をして勝てるはずがない。

日本人には日本人の戦い方がある──。

 宿澤は「しっかりタックルができる」ことを選考基準とし、テンポアップと判断のスピードを徹底した。さらに戦術を共有し、役割を明確化する。その手法は、のちの「エディージャパン」にも通じるものだった。

【名言「お約束どおり、勝ちました」】

 スコットランド戦までの準備期間は、わずか数カ月。それでも宿澤は焦ることなく、相手を徹底的に分析し、すべての練習に意図を持たせた。意味のない反復練習を排し、論理的にプロセスを積み上げる。それはまさに、銀行マンとして培った流儀そのものだった。

 試合前日、秩父宮ラグビー場に隣接する伊藤忠商事ビルから、非公開だったスコットランドの練習を双眼鏡で偵察したという逸話も、彼の徹底ぶりを物語っている。

 迎えた試合当日。相手は若手主体のメンバーだったとはいえ、世界の強豪国スコットランド。直前の試合で関東代表やU23日本代表に4戦全勝したこともあり、勝利を予想するファンは圧倒的に少なかった。しかし、宿澤だけは「この相手なら勝てる」と確信し、選手たちをその気にさせた。

 結果、試合は宿澤の描いたシナリオどおりに進む。CTB平尾誠二キャプテンを中心にテンポの早いアタックで主導権を握ると、CTB朽木英次、WTB吉田義人らがグラウンドを躍動。スコットランドから計5トライを奪い、28-24で歴史的勝利を収めたのだ。

「お約束どおり、勝ちました」

 試合後の会見で、宿澤は淡々とそう言い放った。プロセスが正しければ、結果は必ずついてくる──。彼はそれを証明してみせたのである。

 この勝利は、日本ラグビーに確かな自信を与えた。「奇跡と言われたら、次は勝てない」。宿澤はそこで立ち止まることなく、次なる目標を1991年のラグビーワールドカップに定めた。

 その準備もまた周到だった。情報収集のため、ワールドカップの前年に日本選抜(日本代表B)をジンバブエへ遠征させたことはあまりに有名だ。本大会ではスコットランドに9-47、アイルランドに16-32と敗れたものの、最終戦のジンバブエ戦には52-8で快勝。

日本代表にワールドカップ初勝利をもたらした。

 日本ラグビーの歴史に数々の金字塔を打ち立てた「名将」は、どんな人生を送ってきたのか。

【銀行マンとラガーマンの二刀流】

 宿澤とラグビーの関係は、埼玉・熊谷高校から始まる。だが、花園への出場経験はない。早稲田大学へ進学して名門ラグビー部の門を叩くと、入学当初は目立たぬ存在だったが、秋には1年生ながらSHとして頭角を現す。相手の隙を突くテンポとゲームメイクで、チームに勢いをもたらした。

 2年時から正SHに定着すると、司令塔としてゲームをコントロールして関東対抗戦を全勝で突破。大学選手権決勝で日体大を14-9、日本選手権では新日鐵釜石を30-16で破り、日本一に輝く。3年時も大学選手権(vs法政大/18-3)、日本選手権(vs三菱自工京都/14-11)を制して2年連続日本一を達成。主将となった4年時は、大学選手権決勝でライバル明治大に惜敗(12-13)し涙を呑んだが、その輝かしい実績は色褪せない。

 大学卒業後、多くの同期が企業チームへ進むなか、彼が選んだのは住友銀行への就職だった。結果がすべて数字で示され、言い訳の通用しないシビアな世界。特に為替市場では一瞬の判断が巨額の損益を生む。

情報を集め、分析し、決断して責任を負う。

「勝負とは、準備と判断の積み重ねである」

 金融の最前線で研ぎ澄まされたその思考が、のちのラグビー観へとつながったことは明白だ。

 住友銀行にラグビー部はなかったが、宿澤は日本代表として1975年までプレーした。現役引退後も、多忙な銀行業務の合間を縫って試合の解説や海外チームの分析を行ない、ラグビーから離れることはなかった。

 それが1989年に日本代表監督就任へと結実する。1994年には東京・大塚駅前支店長の業務と兼務しながら母校・早稲田大学の監督も務めた。早明戦(15-34)、大学選手権(vs大東文化大/41-50)ともに敗れはしたが、その挑戦心は衰えなかった。

 その後、銀行では執行役員にまで登り詰め、一方でラグビー協会では日本代表強化委員長や理事など要職を歴任。2003年のトップリーグ創設にも尽力するなど、銀行マンとラガーマンの「二刀流」を貫いた。しかし2006年、登山中の心筋梗塞により55歳という若さで急逝。その早すぎる死は、ラグビー界のみならず金融界からも深く惜しまれた。

【座右の銘「努力は運を支配する」】

 宿澤は、日本人のフィジカルの弱さから目を背けなかった。

現実を認めたうえで、戦略と戦術で勝つ道を探り続けた。その魂は2015年と2019年のワールドカップでの快挙へと確実に引き継がれ、日本はついに自国開催の舞台でスコットランドを破ってベスト8進出を果たした。

 もしこの景色を宿澤が見たなら、何と言っただろうか。

「努力は運を支配する」

 宿澤の座右の銘に象徴されるその哲学こそが、今なお日本ラグビー界に語り継がれる最大のレガシーなのかもしれない。

<連載・了>

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