あの人はいま~山田隆裕(前)
「よく言えば、腐っても"元日本代表"なのかもしれません。ただ、僕はたった1キャップですから。
53歳になった山田隆裕は、少し冷めた表情でこう切り出した。
清水市立商業(現清水商業)時代から、スピード、得点力、テクニックを兼ね備えたサイドアタッカーとして名を馳せた。高校1年の選手権決勝では決勝ゴールを挙げ、2年、3年の時には選手権優勝こそ逃したものの、インターハイと全日本ユースを連覇。同期にはMF名波浩、DF大岩剛、DF薩川了洋ら、のちにJリーグや日本代表で活躍するタレントが揃い、「史上最強」と称された清商のなかでも絶対的な存在だった。
高校卒業後の91年に日産自動車に入ると、ルーキーイヤーに読売クラブとの天皇杯決勝でゴールをマークし、翌年も日産の2連覇に貢献。Jリーグ開幕後は、横浜マリノス(現横浜F・マリノス)で過ごし、95年のリーグ初優勝を経験するなどの活躍をした。
山田が日本代表に初招集されたのは92年。日本サッカーはJリーグ開幕を控え、同年5月に初めての外国人監督としてハンス・オフトを迎え、94年アメリカ大会で初のワールドカップ出場を目指すべく過去にない盛り上がりを見せていた時期だった。
だが、山田にとって日本代表は苦い記憶でしかない。なぜか――。
山田はチーム最年少の20歳で、日本にとって初の国際タイトルとなったダイナスティカップ(現東アジアE-1選手権)に続き、広島でのアジアカップ初優勝を経験した。「一応、優勝したのでうれしいフリはしていましたよ。でも、心底うれしかったかといえば、そうではなかった(苦笑)。チームに帯同していても"何のために自分は呼ばれているのか"という気持ちが強かったからです。起用されればやれる自信はあった。ただ年齢的にはひとりだけ群を抜いて年下で、実際は雑用係みたいなものでした。
若かったので、"将来のために経験を積んでほしい"と呼ばれていたのかもしれません。でも僕にもプロとしてのプライドがあったし、招集した以上、それなりの礼儀ってあるじゃないですか。当時の代表にはラモス(瑠偉)さん、カズ(三浦知良)さんら濃いメンバーが集まり、組織としてやりたいことが明確で、いいチームだったことは確か。一方で、出場メンバーはほぼ固定され、そのほかのメンバーは起用される気配すらなく、僕は自分がチームに必要とされている気はまったくしなかったですね」
【Jリーグ開幕戦の出場を逃した】
山田は翌年も2月のイタリア遠征、3月のキリンカップのメンバーに名を連ね、4月にスタートしたアメリカワールドカップに向けたアジア一次予選に臨むことになった。アジア一次予選は、日本ラウンドとUAEラウンドの計8試合が行なわれ、日本は7勝1分けの首位で最終予選進出を決めた(2位は6勝1分け1敗のUAE)。
ホームでのバングラデシュ戦は8-0の大勝、スリランカには2試合合計で11-0と危なげない試合をしたが、ここでも山田がピッチに立つことはなかった。
「緊迫した場面ならともかく、どんな展開でもチャンスは回ってこなかった。僕の専門はアウトサイドなのに、そのポジションに専門外の人が起用されたこともありましたから、本当に紅白戦要員なわけです。僕はクラブも代表もチームは"生き物"だと思うし、そこに自分がまったく関わることができなければ、いる意味を見出せないじゃないですか」
そんな山田の思いを決定的にしたのが、93年5月15日のヴェルディ川崎対横浜マリノスのJリーグ開幕戦だった。
ワールドカップアジア一次予選の最終戦は5月7日のUAE戦。Jリーグ開幕まで準備期間は1週間しかなかった。ヴェルディではラモス、カズ、柱谷哲二、武田修宏、北澤豪らの日本代表戦士がピッチで躍動した一方、山田は代表で実戦から遠ざかっていたことで記念すべき舞台に立てなかった。
「開幕戦のピッチに立てば一生残るのに、僕はその機会を逃してしまった。長いこと代表に帯同しながら、試合には使ってもらえない。それでチームに戻ったら、"試合勘が戻ってない"って言われ......。代表活動がプラスになるどころかマイナスに感じました」
山田は中学時代、事業に失敗した父親が失踪するという辛い経験をしている。行方知らずになった父親はその後も見つからず、一時は知人宅に身を寄せるなど、経済的に苦しい生活をしていた時期もあった。サッカーはそんな生活から抜け出す手段だった。
【日本代表を応援はしていたが...】
「代表に行っても、それがプロとしての評価や収入につながらない。逆に出場給や勝利給を逃すだけ――そんな状況で、肩書への憧れもなく、代表で戦う意欲は次第に薄れていきました」
93年秋の最終予選を前にした日本代表のスペイン遠征にも帯同した山田。だが、その前には代表チームのコーチであり、オフトの右腕だった清雲栄純に代表辞退の意向を伝えていた。
「僕の記憶が正しければ、清雲さんがマリノスの練習に来たことがあって、帰り際に駐車場で呼び止めて『代表を辞退したい』と伝えました。清雲さんの反応は『(最終予選を控えた大事な)この時期に、そんなことを言うな!』とかだったと思います。でも、周りに記者もいましたし、翌日のスポーツ紙には『山田代表辞退!』と書かれていました。
スペイン遠征のヘレス戦(国際Aマッチにはカウントされない強化試合、1-2の敗戦)で、僕は後半から出場し、代表入り後約1年で初めてピッチに立ちました。もちろん、相手がどれだけ本気だったかわからない部分はあります。でも僕自身、いいプレーができた感触はあったし、マリノスの先輩でもあったGK松永成立さんが『お前、やっぱり(得意の右サイドなら)いいな。自信持ってやれよ』と言ってくれたことは救いでしたね」
オフト・ジャパンはカタールでの最終予選へ向かう直前、東京でコートジボワール代表とアジア・アフリカ選手権(日本が1-0で勝利)を戦ったが、その時には山田の名前はチームから消えていた。
代表を辞退したことについては、「若いのに生意気」「ただのわがまま」といった批判もあった。だが、チームに対する気持ちがなかった山田にすれば、当然の選択だったのだろう。
ちなみに、ドーハで行なわれたワールドカップアジア最終予選は、どんな思いで見ていたのか。
「試合を見たくないとか、そういう気持ちはなかったです。とはいえ、テレビの前にかじりついて見ていたかといえば、そんなこともなかったです。
もちろん応援はしていました。ずっとチームに帯同させてもらっていましたし、先輩たちが悲願のワールドカップ初出場を目指して戦っていたわけですから。ただ、(2-1とリードし、そのまま勝っていればワールドカップ出場が決まった最終戦のイラク戦の)最後にロスタイムで同点に追いつかれたときは、心のどこかに"ほら見たことか"って思いがあったかもしれないですね(苦笑)」
【日本代表への憧れなどなかった】
オフト・ジャパンは結局、"ドーハの悲劇"に見舞われて、初のワールドカップ出場は叶わなかった。山田は、その後ファルカン・ジャパンにも招集され、94年10月の広島アジア大会などに参加したが、出場はアジア大会直前の壮行試合オーストラリア戦(94年9月27日、0-0)のみで、それが唯一のA代表での記録となっている。
「正直、オーストラリア戦の記憶はまったくないですね」
ファルカン・ジャパン以降は、山田と同世代の選手も多くが日本代表でプレーするようになり、98年フランスワールドカップ初出場、02年日韓ワールドカップへとつながっていった。だが、山田にとっては他人事だった。
フランスワールドカップで背番号10を背負っていたのは、清商時代のクラスメートでもあったMF名波だった。
「『頑張れ』とは思っても、『クソッ、オレも代表でプレーしたいな』という気持ちはなかった。珍しいタイプなのは自分でもわかっています(笑)。
日本代表がワールドカップ出場を意識するはるか前の時代に(高校サッカーが盛んだった)静岡で育ってきた自分にとっては、高校サッカーが最大の目標で、日本代表への特別な憧れなどはなかった。しかも、Jリーグというプロリーグができて、僕のなかで日本代表って、大きなウェイトは占めていなかったんです。別にサッカー選手全員が日本代表を目指す必要もないですし、それぞれに合った形でプロとして生きていく道があってもいいじゃないですか。
もちろん、僕の周りには『もっと賢く立ち回ったほうがいい』と言ってくれる人もいました。でも、いまでも『賢く立ち回ったところで?』と思ってしまうのが自分なんです」
(つづく)
山田隆裕(やまだたかひろ)
1972年4月29日生まれ。大阪府高槻市出身。小学校3年の時に静岡県清水市に転居。清水市立商業高校では1年からレギュラーとして活躍。1988年の全国高等学校サッカー選手権大会決勝の市立船橋高校戦では決勝点を挙げる活躍で優勝に貢献。1989年と1990年に2年連続高校総体、全日本ユース選手権制覇に貢献するなどして注目を集めた。

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