あの人はいま~山田隆裕(中)
1993年、"ドーハの悲劇"を前にして日本代表の招集を辞退するなど、物議を醸した山田隆裕(53)。だが、Jリーグでは95年に横浜マリノス(現横浜F・マリノス)のリーグ初優勝に貢献、2001年にはベガルタ仙台でJ1初昇格の立役者となった。
高校時代から多くのタイトルに恵まれ、日産自動車でも入団から2年連続で天皇杯を獲得したものの、Jリーグ開幕以降のビッグタイトルは95年のリーグ優勝のみ。そのシーズンはリーグ43試合に出場し7ゴールとキャリアハイの数字を残しているが、実はシーズン途中で監督と衝突し、チームから離脱していた時期もあったと振り返る。
「チームは開幕4連勝とスタートダッシュに成功し、その勢いでファーストステージで優勝しました。でも僕は、ステージ優勝が決まった鹿島(アントラーズ)戦を含め、ラスト3試合は謹慎させられていたんです。そういう意味で、チームとして結果は出たものの、個人的には激動のシーズンでもありました(笑)」
Jリーグ開幕から2年連続無冠だった95年のマリノスは、前年のアメリカワールドカップでサウジアラビアをベスト16に導いたアルゼンチン人のホルヘ・ソラリを招へいし、ファーストステージ開幕16戦で11勝5敗と首位に立っていた。だが、ステージ途中の中断期間のオーストラリア遠征中にソラリが病気を理由に突然辞任し、急遽、OBの早野宏史が監督に就任。山田はその早野と起用法を巡って対立した。「ちょっと不満を口にしただけなんですけどね。その後、和解したというより、チームが苦しくなって呼び戻された感じでした(苦笑)」
チャンピオンシップの相手は、3連覇を狙うヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)。戦前の予想はヴェルディ有利が圧倒的だったが、国立競技場での開催となった2試合は、いずれもマリノスが1-0と勝利。山田は2戦ともに先発し、第1戦ではダビド・ビスコンティの先制ゴールをアシストするなどタイトル奪取に貢献した。
「ヴェルディはビスマルクやアルシンドらブラジル人選手もいて、いいチームでした。華麗な中盤はもちろん、あの年は豊富な運動量も武器という印象を持っていました。ただ、僕らは日産時代からヴェルディ戦には負けていなかったし、戦い方はわかっていた。結局はラモス(瑠偉)さんをいかに抑えるか、なんです。2試合ともボールは支配されましたが、勝つ自信はありました」
【もし名古屋グランパスに入っていたら...】
山田にとってキャリアのベストパフォーマンスになったのも、この年の試合だった。
「ファーストステージに三ツ沢で(名古屋)グランパスに2-0で勝ちました。その試合で2点を入れたのが、僕の"ベストバウト"です。当時は2トップの一角として自由にサイドへ流れるようなプレーをしていたのですが、グランパスのアーセン・ベンゲル(監督)が僕のスピードを気に入ってくれたみたいで、水面下で移籍の話もあったと聞きました。
僕は高校時代から右ウイングを主戦場にしていましたし、サイド攻撃を重視していたベンゲルの戦術にフィットすると思われたのかもしれません。同期の大岩剛からベンゲルの指導法については聞いていましたし、その指導を受けてみたい気持ちもありました。実は高校卒業時にもトヨタ自動車(グランパスの前身)入りの可能性があったので、もし行っていたら......という思いはいまだにありますね」
その後、98年には京都パープルサンガ(現京都サンガ)、99年にはヴェルディ川崎でプレー。いずれも、出場機会を求めるというよりクラブの改革期に必要とされての移籍だったが、00年にあっさりとスパイクを脱いでいる。
ヴェルディ川崎では出場した29試合のうち19試合が途中出場だったとはいえ、十分に戦力として機能していた。なぜ引退という選択になったのか。
「特に何か準備していたわけではないです。周りからは『まだ、やれば』という声もありましたが、もういいかなと。望めば契約はしてもらえたと思います。ただ、年齢を重ねるなかで、右アウトサイドで勝負することに限界を感じていました。若い頃は簡単にスピードでぶっちぎれていたのに、それが難しくなってきたんです。
プレースタイルの変化も必要でしたが、極端なスタイルだったぶん、自分のなかでも変化を受け入れるのが難しく、周囲の理解も得にくかった。たとえばマリノスの先輩、木村和司さんは晩年のMFのイメージが強いですが、若い頃はスピードのあるウインガーでした。和司さんは受け手の気持ちを理解していたことで、パスの出し手としても成功できたのだと思います。
やっぱり足が速いとか、ヘディングが強いとか、スピードや高さに頼っている選手は、いつか自分より速かったり強かったりするヤツが出てきたら終わり。フィジカルで勝負する人間は、いつかフィジカルに負けるんです」
【ベガルタ仙台のJ1昇格に貢献】
引退後は、何もせずダラダラとした生活を送っていたというが、1本の電話が運命を変えた。
「確か5月の連休明けくらいだったと思います。軽い気持ちで仙台に行ったら、駅にチームのマネージャーが迎えに来ていて、練習着を渡されて3カ月帰れなくなった(笑)。清水さんからは、3年でチームをJ1に上げたいので協力してくれと言われました。
当時、仙台はJ2でも下位に沈み、メンバー、環境、選手の意識、どれをとっても簡単なことではないと思いました。ただ、その頃はまだ野球の楽天イーグルスもなかったですし、東北最大の都市・仙台には東北で初のJ1に昇格するという気運があって、スタジアムにも活気がありました。まるで10年遅れのJリーグバブルが来ているというか。個人的にはもう一度、J1でプレーしたいという気持ちはなかったですが、仙台という街が変化していく様は見てみたいと思い、現役復帰することにしました」
仙台では、山田はボールの受け手から出し手へと、プレースタイルを変えていった。
同年、仙台は5位まで順位を上げると、翌年には見事昇格。昇格の行方は最終節までわからなかったが、仙台は優勝した京都に1-0と勝ち、J2の2位に滑り込んだ。
「その裏で(勝ち点で並び、得失点差で上回っていた)モンテディオ山形が川崎フロンターレと対戦していて、山形が勝ったら僕らの昇格はなかった。
決勝ゴールは終了間際の44分でした。輝雄の左クロスを僕が中央で頭でつなぎ、最後はザイ(財前宣之)が押し込むと、スタジアムは大歓声に包まれました。僕にしては珍しいヘディングでしたが、高校時代の選手権決勝もヘディングでしたし、伝家の宝刀なんです(笑)」
【メロンパン販売を20店舗まで拡大】
昇格の際には、涙を見せて歓喜した山田。日本代表を辞退したこともあったが、サッカーすべてに対してモチベーションを失ったわけではなかったのだろう。
「すべては運と縁とタイミングです。J2でのプレーにも、僕は何の抵抗もなかった」
仙台は02年も無事にJ1残留を決め、山田は03年のシーズン途中に「自分の役目は終わった」と、今度こそ引退した。そして、数カ月後にはメロンパンの移動販売をフランチャイズ事業として展開し、メディアで取り上げられ話題となった。
メロンパンを自身で売り歩いていたわけではなく、フランチャイズ経営だった。オーブンを積んだバン(車)をスーパーの駐車場などに停めて、焼きたてのメロンパンを売るのだが、焼きたてという物珍しさ、涼しい仙台の土地柄、広告塔となったトップの山田が最後にプレーした地だったことも追い風となり、瞬く間に約20店舗まで拡大した。
当時、Jリーガーが引退後に異業種で活躍する例はほとんどなかったこともあり、山田はセカンドキャリアの代表的な成功例としても知られるようになった。
「もともとは僕の知人が大阪で、メロンパンの移動販売をやっていたんです。それを見たのがきっかけで始めました。いまならキッチンカーといえばオシャレなイメージがありますが、当時はとてもキレイとはいえない車にオーブンを積んで、そこでメロンパンの焼きたてを売っていたわけです。僕は『本当に売れるの?』という思いで見ていましたが、焼き始めると辺りが香ばしいパンのいい匂いに包まれて、どこからともなく人が集まってきて、すぐに行列ができました。そして、聞けば1日に1000個も売れると言うんです。
焼きたてを売るなら、寒い地域のほうがいいですよね。大阪で成功しているなら、東北(仙台)でフランチャイズ化すれば間違いないとの単純な発想で起業しました。するとローカルメディアにも紹介され、すぐに多くのオーナーが集まりました。ただ、いま思えば準備不足でした。売り上げが一気に伸びたぶん、落ち込みも早く、約3年で畳むことになりました」
(つづく)
山田隆裕(やまだたかひろ)
1972年4月29日生まれ。大阪府高槻市出身。小学校3年の時に静岡県清水市に転居。

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