あの人はいま~山田隆裕(3)

 現役引退後、仙台で始めたメロンパンの移動販売事業が話題になった山田隆裕(53)。だがそのビジネスとは約3年で決別し、その後は、飲食店の手伝いやダイエットを兼ねての新聞配達、西新宿でアイリッシュパブのグランドマネージャー、YouTuberとして活動するなど、さまざまな仕事に従事してきた。

 JリーガーのOBのなかでも、引退後に山田ほど多くの職を経験した人はいないかもしれない。

「僕の場合は、履歴書を持って面接に行ったりしたわけではないですけどね。サッカー選手になる前から事業を起こすことには興味があって、選手時代もビジネス書はよく読んでいました。ただ、メロンパンの移動販売後は、大きなビジネスはできていません。

 地方に講演やサッカースクールなどのイベントで出向くこともあり、時にはそこで出会った経営者の方の手伝いをすることもあります。たとえば名古屋の人工芝施工会社では、東京での営業に協力させてもらうことも。偶然ですが、当時僕がサッカースクールで使っていたグラウンドが、その会社が施工した人工芝だった縁で、社長さんによくしていただいています。最近では、岐阜県で美濃焼の骨董品を販売している社長さんと知り合い、陶器に興味を持つようになりました。

 意外に思われるかもしれないですが、講演の仕事を長くやっているので、話すのは得意なんです。その社長さんにも話しぶりを褒められましたし、いまは陶器も外国人観光客などに人気があるらしく、商品を説明し、販売する仕事も面白いかもしれないと考えたり......。もちろん僕がやせる薬なんかを売り始めたら、それこそ胡散臭い(笑)。あくまで陶器に興味を持ったので、もっと知識を深め、仕事につながれば面白いなと思っただけなんですけどね」

元祖イケメンJリーガーが語るセカンドキャリア 山田隆裕「人生...の画像はこちら >>
 一時はサッカーから完全に離れていた。
だが、この5、6年はサッカー関連の仕事も多くなり、日本ウェルネススポーツ大学・専門学校サッカー部や千葉県内の「柏の葉フットボールアカデミー(小学生)」で指導に当たっているほか、2025年11月には岐阜県社会人リーグから将来のJリーグ入りを目指すFCボンボネーラのヘッドコーチに就任している。

【勝負がかかった試合に関わるのは楽しい】

「僕も53歳になって、あと何年、体が動くかわからない。プロの指導者ライセンスは持っていないので、一緒に楽しみながら教えることを意識しています。ボールに触れるのは新鮮ですし、指導した選手が上達していくのを見るのはうれしいですよ。

 小学生の指導は、(試合で勝つための)チームではなく(技術を伸ばす)スクールなので、とにかく基本を繰り返し教えています。個のスキルを伸ばすには、それしかない。子どもなので体の成長速度は違うし、小学生のうちはどうしても背の高い子やスピードのある子が目立ちます。そんななかで大事なのは、3年後、5年後の伸びをどう想像するかということ。なかには目の前しか見ていない指導者もいますが、子どもの場合はそこを意識してどうアドバイスするかが大切かなと思います。

 11月からは短期間ですが、岐阜のFCボンボネーラでヘッドコーチをしていました。今季は岐阜県1部で優勝し、東海リーグ(2部)への昇格をかけた東海社会人サッカートーナメントにも勝つことができました。今後のことはまったくわかりません。

ただスクール的な指導とは違い、久しぶりに勝負がかかっている試合をチームの一員として関われたことはすごく楽しかったですね」

 経済的に恵まれた環境ではなかったからこそ、高校を出てすぐに稼げるとサッカーの道に進んだ山田だが、実は高校卒業時には別の道に進む可能性もあったと振り返る。

「競輪好きな知人から『費用は全部面倒を見てやる』と競輪学校へ行くことを勧められたことがありました。『オマエ、足が速いだけじゃなく、ゴール前の闘争心がある。競輪にいったら、絶対に成功する』と。競輪選手で成功している人は、みんな若い頃、足が速かったという共通点があるらしいです。

 もし競輪の道に進んでいたら、そこそこいけたような気はします。そしたらサッカーの何倍も稼げていたかもしれない。実際に心が動くことはなかったですが、いま、当時に戻れたら競輪にいっちゃうかもしれませんね(笑)」

【同期は日本サッカー界の中枢に】

 人生にはいくつかの岐路があり「もし違う選択をしていたら」という気持ちは歳を重ねた人なら誰もが抱くのかもしれない。

「サッカー選手になるか、競輪選手になるかもそう。さっき話したように、もし(名古屋)グランパスへ移籍していたら、どうだったのか。ただ、人生は思いどおりにならないから面白い。後悔を挙げればきりがないけれど、愚痴ばかりこぼしていても仕方がないですからね」

 サッカー解説などの仕事はこれまでしたことがない。

「だって僕、いまの選手のこととか、よくわからないですから。コミュニケーションスキルには自信がありますが、サッカーを90分間、テレビやスマートフォンで集中して見続けるのは大変じゃないですか(笑)。それに、お腹だって信じられないくらい出てきちゃっていて、もうただのおじさんですからね」

 若い頃は端正な顔立ちで注目を集め、実力だけでなくイケメンJリーガーとしても鳴らしていただけに、古くからのファンなら驚くような言葉かもしれないが、そこが山田らしさでもある。

 清水商業でチームメイトだった名波浩(日本代表コーチ)や大岩剛(U-23日本代表監督)、同じ静岡のライバル校で凌ぎを削った同期の野々村芳和(清水東出身、Jリーグチェアマン)や森島寛晃(東海大一出身、セレッソ大阪代表取締役会長)らは現在、日本サッカー界の中枢で活躍している。

「みんなには日本サッカーをリードしてもらえたら。サッカーも政治もそうだけど、いつまでも古い体質だとよくない。いろんな意味で改革してもらいたい。

 高卒でプロに入って1、2年でクビになる選手も多いなか、31歳までプロでできたのは幸せなこと。選手としては早熟で、僕は人生の早い時期に運を全部、使ってしまったけど、人生は長いし、見栄を張っても続かない。できることをやっていくしかないですからね」

 過去や肩書きに縛られることなく、自分らしくいまを生きている。人は人、自分は自分。そのスタイルを貫くのが山田隆裕なのだろう。

山田隆裕(やまだたかひろ)
1972年4月29日生まれ。大阪府高槻市出身。小学校3年の時に静岡県清水市に転居。清水市立商業高校では1年からレギュラーとして活躍。1988年の全国高等学校サッカー選手権大会決勝の市立船橋高校戦では決勝点を挙げる活躍で優勝に貢献。1989年と1990年に2年連続高校総体、全日本ユース選手権制覇に貢献するなどして注目を集めた。高校卒業後、日産自動車(現横浜F・マリノス)に入部。黎明期のJリーグで人気を博した。1992年には日本代表に選出。その後、京都パープルサンガ、ヴェルディ川崎、ベガルタ仙台でプレー。2003年シーズン途中で現役を引退した。

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