ベテランプレーヤーの矜持
~彼らが「現役」にこだわるワケ(2025年版)
第10回:清武弘嗣大分トリニータ)/前編

家長昭博には「上にはいけねぇぞ」と咎められた――清武弘嗣にと...の画像はこちら >>
 清武弘嗣のキャリアを遡(さかのぼ)ると、近年は痛々しいほどケガの履歴が並ぶ。特に海外からJリーグに復帰した2017年以降は、左ハムストリング筋損傷、左ふくらはぎの肉離れ、右ハムストリング筋損傷、右足首関節靭帯損傷、両側ハムストリング筋損傷、左足リスフラン靭帯損傷など、復帰まで1~3カ月のリハビリ期間を要する大ケガも多い。

 今シーズンもそうだった。

 アカデミー時代から在籍し、プロキャリアをスタートさせた地元のクラブ、大分トリニータ(J2)のユニフォームを16年ぶりに身に纏い、プロ18年目のキャリアをスタートさせたものの、9月に左ヒラメ筋の肉離れでシーズン2度目の長期離脱になってしまう。その時の心情を綴った自身のSNSには無念さと悔しさと、それでもなお、前を向こうとする心情が入り混じった言葉が並んだ。

「"何のために帰ってきたのか""もう終わった選手だから"いろいろな言葉をもらいます。これだけ怪我をすると、もう終わりかなと自分でも思ってしまうしすごく申し訳ない気持ちです。けど、情熱が消えたかと言われると、やっぱり消えてないです。このまま引退したら必ず後悔する。時間はかかるけど、もう一度しっかり治して、またプレーする姿を見てもらえるように頑張ります。」(一部抜粋/原文ママ)

 その言葉の奥にある心情を聞きたくて、過酷なリハビリに繰り返し立ち向かう理由を知りたくて、大分のクラブハウスに向かう。約束の時間に現われた彼は、第一声からその言葉に、相変わらずのサッカー小僧っぷりを漂わせた。

「せっかく、大分に帰ってきたのに、マジで自分が嫌になります。ボール蹴りてぇ、思い切り走りてぇ、サッカーしてぇー!って毎日、そればっかです。でも、焦りが一番ダメだから。

そのせいでケガを繰り返してしまっているのも自覚しているだけに、今はとにかく"焦り"が敵だと思って、そこと戦っています」

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「相変わらずのサッカー小僧」と記したのは、遡ること11年前、ニュルンベルクでプレーしていた彼に初めてロングインタビューで向き合った時から、ずっとその印象を抱いていたからだ。

 当時24歳だった彼は、目を輝かせて自分にとっての"サッカー"を語っていた。

「子どもの頃は日本代表になれるなんて思ってもみなかったし、海外でプレーするなんて考えたこともなかった。でも、どうにかして大好きなサッカーがうまくなりたくて、ちょっとでも試合でいいプレーがしたくて、そのためにガムシャラにボールを蹴る毎日が楽しくて、ライバルに刺激を受けながら絶対に負けるもんかと戦い続けていたら、今の自分がいた。

 もちろん、いいことばかりじゃないし、うまくいかないこともたくさんあって、『ああ、日本に帰りてー!』って思うこともあります。試合に出られないと、サッカー選手じゃいられなくなるんじゃないか、って怖くなる日もありますしね。

 でも、ガムシャラの先に"今"があると考えたら、もっと必死に戦って新たな世界を見てみようって気持ちが湧いてくる。それに、変な言い方ですけど、僕の伸びしろはこんなもんじゃないはずだから(笑)。もっとうまくなれるだろ、やれるだろ、って自分を信じているし、そうなれば、もっとサッカーを楽しめるんだろうなってワクワクします」

 あれから月日は流れ、36歳になった今も根底に流れるサッカーへの情熱は変わっていない。そこはかとないサッカー愛も相変わらず、彼のど真ん中で脈打っている。

 でもだからこそ、度重なるケガに心が折れることはないのか、気になった。

「正直、もういいかなって思った瞬間もありました。

でも、次の瞬間には『このままやめたくない』って思いが湧いてきて、気づいたらまた、必死にリハビリに向き合っています。

 とはいえ、さすがに近年は長期離脱を強いられるケガが続いたので。仮に、復帰した時に自分が大事にしているプレーの感覚的なところが失われていたら、そのまま引退を考えたと思います。ボールを蹴りながら『このパス、ミスる?』とか『そこが見えないのか』みたいな感覚を覚えたら、『俺もここまでやな』って踏んぎりがついたと思う。

 でもこれまで、どのケガから復帰した時もそう思ったことは一度もないんです。だから『ああ、やっぱ、サッカーって楽しいな~』って気持ちになって、ここからまたうまくなってやる、這い上がってみせるって思っちゃう。だから今も、その瞬間を求めてリハビリを続けています」

 無論、20代前半の頃に比べて、今の自分の体がまったく同じだとは思っていない。プレーに関しても、現代サッカーにおいては足元の技術だけでは勝負できないという自覚もある。ベテランであることを理由に何かが免除される世界ではないということも承知のうえだ。

「走れ、闘え、の現代サッカーでは、スプリント回数や走行距離がすべてデータで示されるので。頭の片隅ではそれがすべてじゃないだろ、とは思いつつ、でも、だからやらないということは絶対にあってはいけないとも思っています。何歳になっても、どんなプレースタイルでも、チームとしてそれを求められるなら、当然、走らなくちゃいけないし、戦わなくちゃいけないし、チャレンジもしなきゃいけない。

 ただ、20代の体ではないのも事実なので。単に走るのではなく、頭を使って走るとか、効率よく走るとか、対人もガッシャン、ガッシャンいくのではなく、視野の取り方、考え方で相手を上回るとか。ここ数年はそういうことも考えつつ、そのうえで自分の持ち味をどう落とし込めるか、より整理できてきた気もします。

 とはいえ、今年は僕自身、初めてのJ2リーグで、正直これまでとは違うタフさが求められるのも感じていて......今になって思えば、それが少し気負いになっていたのかもしれません。しかも、古巣に戻ってきたなかで『俺がやらなきゃ話にならんでしょ!』という思いが強すぎて、なんでもかんでもガムシャラにやりすぎていたのかな、と。

 実際、足に張りがあるなと思ったら休むとか、体が疲れているなと思ったら少し力を抜くことも必要なのに、『みんなと同じメニューをしたい』『(力を)抜くなんて考えられん』って思いが先に来て、それがうまくできなかった。そんな自分を客観的に見て、『考え方が古いよな~』って思うこともあるんですけど、『もう36歳なんやけん、古くて当然でしょ!』って思う自分もいて、もう厄介(笑)。

 でも結局、こうして長い離脱になればチームに迷惑をかけてしまいますからね。そう思って今は、とにかく焦りが敵だと。毎日、自分に言い聞かせています」

 振り返れば、幼少の頃から何をするにもガムシャラで、手を抜けない子どもだった。サッカーも、遊びも常に全力。まして、大分ユース時代には高校2年生の終わりから1年強もの時間、ケガでサッカーができない経験も味わったからだろう。

「このままだとサッカー選手でいられなくなるかもしれない」という不安に駆られた日々は、より彼のガムシャラさを加速させ、2008年にトップチームに昇格してからも、とにかく「誰よりも練習しなくちゃいけない」「このチャンスをつかみ取らなくちゃいけない」と必死だった。

 もっとも当時は生来の負けん気の強さが悪いほうに働いて「プレーの荒さにつながっていたことも多かった」と振り返る。それをチームメイトの家長昭博(現川崎フロンターレ)に咎められたことや、2009年夏から指揮官となったランコ・ポポヴィッチ監督に雷を落とされて数カ月間干された経験が、"プロサッカー選手"としての原点になった。

「小さい頃から僕は気持ちのコントロールがうまくできなくて。自分の思いどおりにプレーできている時は、いいプレーができるのに、ちょっと歯車が狂った途端に感情が爆発しちゃう、みたいな。小学6年生の時の全日本サッカー選手権大会でレフェリーに暴言を吐いて一発退場になるとか、試合中、カッとなって相手選手を引っ張って倒す、削る、みたいなことも何度もありました。

 それはプロになってからも変わらずで......レベルが上がれば当然、うまくいかないことも増えるから余計にブレーキが効かなくなって、練習でもとにかく周りを削りまくっていたんです。ガムシャラさが間違った方向に出ちゃっていました。

 するとある時、アキちゃん(家長)に『おまえ、そんなんじゃあ、上にはいけねぇぞ』ってズバッと言われたんです。そんなふうに周りの選手から面と向かって咎められたのは初めてで。でもだからこそ、心にズドンと響いたし、それ以降は感情任せにプレーすることがなくなった。

 そうしたら8月くらいから試合に絡めるようになったんですけど、忘れもしないプロ2年目の夏、ポポヴィッチさんが監督に就任されて間もない頃だったと思います。

ある試合で先発する予定だったのに、試合当日の午前中、チームで軽く体を動かした時にハムストリングを痛めてしまった。結果、試合にも出られなくなり、ポポヴィッチさんにも『試合に向かう準備ができていないからだ』と怒られました。

 しかも、復帰後も信用を失ったのは明らかで、全然使ってもらえなくなったんです。仮にメンバー入りはしてもほとんど起用されないという日々が2~3カ月は続いたんじゃないかな。あの時はもう、サッカー人生で一番と言ってもいいくらい死に物狂いで練習して......11月頃からようやくコンスタントに先発を任されるようになった。そのふたつの経験がなければ、きっと僕のキャリアは2~3年で終わっていたと思います」

 クラブのJ2降格と財政難を受けて2010年にセレッソ大阪に移籍したことも、プロキャリアにおいては最初の大きな転機だ。当時は人見知りで、井の中の蛙だったこともあり、「特に出る必要がなければ、永遠に大分にいたと思う」と清武。だが、必然的に移籍をせざるを得なくなった状況が彼の才能を一気に開花させた。

「大分時代のアキちゃんや金崎夢生くん(現ヴェルスパ大分)にはいつも、『この人たちには敵わんな』と思っていたし、セレッソに移籍したらそこにはまたしても、アキちゃんをはじめ、(香川)真司くん、乾(貴士)くんらがいて。しかも、翌年には(倉田)秋くん(現ガンバ大阪)も加わってきましたから。代表クラスで、年齢的にも近く、めちゃめちゃうまい彼らのような"追いかける人"がたくさんいる環境でプレーを磨けたことは、自分にとってすごく大きかったです。

 最初こそ試合には出られなかったけど、紅白戦などでのアピールを続けながら『自分もやれる』『俺もこのチームで試合に出たい』という気持ちを膨らませられたことや、夏頃からポジションをつかんだなかで『やれる』という確信を持てたことも、めちゃめちゃ自信になりました」

 レヴィー・クルピ監督が志向する攻撃サッカーのもと、徹底してアシストやゴールという結果にこだわれるようになったのも、その成長に拍車をかけた。

「今になって思えば、サッカーIQの高い、強烈な個を持った選手がそろっていたからかもしれないですけど、前線には『こんなに好きにやっていいの!?』と衝撃を受けるくらい自由を与えられていました。ただ、甘い監督では決してなく......ちょっと調子に乗っていたら、決まって『サッカーにすべてをかけて海外への道を切り拓いた真司のようになりたくはないのか?』と鼻をへし折られました。

 と同時に、繰り返し『おまえのキャリアを変えるのは、数字だ。シュート数やゴールにもっとこだわれ』とも求められた。それまでの僕は、どちらかというと自分が気持ちよくプレーできればOKというタイプで......。ドリブルで抜いて、自分もシュートを打てるけど、横の選手にアシストしちゃう、みたいなプレーに喜びを覚えていたんです。でも、セレッソではよりゴール、アシストといった数字を意識するようになりました」

 その証拠に、2010年7月頃からレギュラーに定着した清武はその年、25試合に出場し4得点を挙げると、2011年には25試合に出場し7得点と結果を示す。それはチームの結果にもつながり、クラブ史上最高順位の3位に上り詰めた2010年はリーグ4位の得点数(58)を記録し、2011年にはリーグ2位タイの67得点をマーク。J1きっての攻撃力を印象づける。そのチームの中心選手のひとりとして輝いていた彼は2011年8月、自身初の日本代表に選出された。

(つづく)◆清武弘嗣が感じていた日本代表への中毒性 海外への移籍を決断した真相にも迫る>>

清武弘嗣(きよたけ・ひろし)
1989年11月12日生まれ。大分県出身。大分トリニータのアカデミーで育ち、2008年にトップチームに昇格。2010年、セレッソ大阪に完全移籍して才能が開花。2012年にドイツのニュルンベルクに移籍。以降、ハノーファー、スペインのセビージャでもプレー。2017年にセレッソ大阪へ復帰し、2024年にサガン鳥栖へ期限付き移籍したあと、2025年に古巣の大分へ完全移籍。その間、日本代表、五輪代表でも活躍。2012年ロンドン五輪、2014年ブラジルW杯に出場した。国際Aマッチ出場43試合5得点。

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