ベテランプレーヤーの矜持
~彼らが「現役」にこだわるワケ(2025年版)
第10回:清武弘嗣(大分トリニータ)/中編

清武弘嗣が感じていた日本代表への中毒性 「絶対無理」と言って...の画像はこちら >>

前編◆家長昭博には咎められた――清武弘嗣にとって干された数カ月が「プロ」としての原点になった>>

 清武弘嗣が、レヴィー・クルピ監督によって植えつけられた"数字"への意識をより強めたのは、2012年夏に自身にとって初めての海外、ドイツのニュルンベルクに移籍してからだ。この年、彼はセレッソ大阪のエースナンバー「8」を背負い、クラブ史上初のタイトルを目標にシーズンをスタートしたが、そのキャリアはロンドン五輪出場を前にして、彼自身も想像していなかった方向へと動いていく。

「(地元の)大分から出るのも渋ったくらいの僕なので、正直海外でプレーするなんてまったく考えていませんでした。そもそも海外の試合もほぼ見たことがなかったし、興味もなかったです。セレッソで『サッカーが楽しくてたまらん!』という毎日を過ごしていたので、このまま引退までセレッソにいようとすら思っていました。

 2010年夏に(香川)真司くんがセレッソから初めて海外に移籍し、アキちゃん(家長昭博/現川崎フロンターレ)、乾(貴士)くんがそれに続いていた流れもあって、周りには『次は清武だろ?』的に言われることも多かったけど、そのたびに『いや、俺は海外向きの性格でもないし、8番もつけたから(海外には)行かない』と返していました。

 なのに、2012年4月頃にニュルンベルクから正式なオファーが届いたんです。しかも、わざわざ強化部の方が会いにくる、と。それでも『海外なんて絶対に無理。興味がないから、わざわざ来てもらわなくても大丈夫です』とお断りしたんですけど、強化部の方たちがぜひ会って話をしたい、と来日して......。なので、渋々......言い方は悪いけど、本当に渋々、会いました。

 そうしたら、チームのビジョンや戦術の話などをいろいろと伝えられたあと、最後に『13 KIYOTAKE』って入ったユニフォームを見せられ、びっくりして『俺、行きます!』と(笑)。そんなにも求めてくれているのがうれしくなっちゃって、そのユニを見た途端、怖さや不安が吹っ飛んで、代理人も驚くような勢いで返事をしていました」

 そうして、2012年5月にニュルンベルクへの完全移籍が決まり、清武はU-23日本代表としてロンドン五輪を戦い終えたあと、チームに合流。海外でのキャリアをスタートさせる。

当初は慣れない環境に苦戦した時期もあったと聞くが、そのつど日本代表で手にした自信や、国を背負ってサッカーをすることの重みを知ったことで芽生えた感情に背中を押され続けた。

「2011年に初めて日本代表に入ってすごいなって思ったのは、そこにいる選手のほとんどが、自分は何が武器で、特徴で、どうすれば生き残っていけるのかを知っている人がすごく多かったことでした。長友佑都くん(現FC東京)にしても酒井高徳(現ヴィッセル神戸)にしても、それぞれに選ばれた理由を明確に理解していて、その武器で勝負をしていた。

 それに対して僕は、(アルベルト・)ザッケローニ監督から『キヨは常に一定のパフォーマンスが出せる、波のない使いやすい選手だ』みたいには言ってもらっていた一方で、何で勝負をするか、という部分が明確ではなかったというか。

 しかも、自分より強烈な個性を持った本田圭佑さんとか、岡ちゃん(岡崎慎司)や真司くんに気圧されていたのか、誰に言われたわけでもないのに『自分は先発の選手が疲れた時に途中から試合に出て流れを変える役割だ』みたいに思い込んじゃっていた。そこは今振り返っても、自分の弱さで、だから秀でた結果を残せなかったんだと思います。

 ただ、日の丸を背負って戦うことには途轍もない魅力というか、一度あの舞台を経験したら離れられない、というくらいの中毒性を感じていたので。それを手放したくない一心で、海外で結果を残さなきゃいけない、何がなんでも活躍し続けなきゃいけないと思っていました」

 そうした思いは結果でも示され、清武はニュルンベルクでの最初のシーズンとなった2012-2013シーズンで31試合に出場。トップ下のポジションに定着し、ブンデスリーガで4得点10アシストと結果を残してチームの主軸として活躍を見せる。

 ディーター・ヘッキング監督に足元の技術を買われ、プロになって初めて、プレースキッカーとしての役割を与えられたのもこのシーズンだ。ただし、意外にもチームの中心選手としてプレーする日々は、自身の成長に対するブレーキを感じることにもつながったと振り返る。

「さっき(前編で)も話したとおり、大分トリニータ時代も、セレッソ時代も、僕は常に自分より明らかにサッカーIQが高くて、めちゃめちゃうまいというような"追いかける人"がいる環境でサッカーをしてきたので。

でも、ニュルンベルクではどちらかというと僕がチームの中心というような立ち位置になり......。試合には出してもらいながらも、その環境で自分を成長させる難しさも感じていました。

 その一方で、メンタルのところでは2013-2014シーズンの9月にハセさん(長谷部誠)が加わってくれたので。ハセさん自身はケガで離脱していた期間も長かったため、一緒にプレーする時間は短かったですけど、何年在籍してるの!?って思うくらい仲間からリスペクトされている姿を間近で見られて、そのリーダーシップから学ぶところはたくさんありました」

 しかしながら、環境が成長に与える影響も痛感したのも事実で、清武はニュルンベルクの2部リーグへの降格を受けて、2014-2015シーズンはハノーファーへ移籍。より厳しい環境に身を置くことでの成長を求める。

「もちろん、どんな環境でもまずは自分自身が成長を求めなければいけないのは大前提ですけど、僕の性格的には、もっとやらなきゃ上には上がいるぞと、せき立てられるようなライバルがいる環境でプレーするほうがより頑張れると思い、移籍を決めました。

 実際、ハノーファーにはラース・シュティンドルという絶対的エースがいたので、移籍初年度は途中出場がほとんどでしたけど、その環境で『うわぁ、足りてねー』と思いながら自分を鍛えられた。だから、翌2015-2016シーズンはチームの中心でプレーできたんだと思っています」

 ところがその後、さらなるステップアップを目指した2016-2017シーズンの、スペインのセビージャへの移籍は、順風満帆なスタートを切ったのも束の間、思わぬ形で幕を閉じる。UEFAスーパーカップのレアル・マドリード戦に先発したのを機に、リーガ・エスパニョーラの開幕戦、エスパニョール戦にも先発し1得点1アシストと上々のスタートを切ったあとのことだ。第2節のビジャレアル戦を戦い終えて、日本代表の活動に参加してチームに戻ると、驚きの状況が待ち受けていた。

「当時は本田さん、長友くん、岡ちゃんなど、日本人選手が相次いでビッグクラブに移籍していたタイミングだったのもあって、自分もそろそろ次のステップにいくタイミングかなと思って決断したセビージャへの移籍でした。ハノーファーであらためて競争力の高いチームに身を置く必要性を実感し、自分の欲がより膨らんでいたのもあります。

 そのなかでカップ戦を含めていい入りはできたんですけど、第2節のビジャレアル戦は正直、あまりいいパフォーマンスができなくて60分くらいで交代になったんです。その試合の直後に、インターナショナルウィークに突入したので、僕も日本代表の活動に合流しました。そうしたら、そのインターナショナルウィークの最中にセビージャがマンチェスター・シティからサミル・ナスリを獲得したんです」

 ナスリといえば、ボールコントロールとハードワークに秀でたフランス代表選手だ。マンチェスター・シティ時代は2度のプレミアリーグ制覇にも貢献するなど実績も申し分なく、かつては「ジダン二世」と評された時期もあった。

 そのナスリが同じポジションを争うライバルになるとなれば、心中は穏やかではなかったはずだ。それでも「競争はどこにでもあること。自分がそれに勝てばいいだけ」と腹を括ってチームに戻ったというが、清武にとって、事態はどんどん悪化の一途を辿った。

「戻ってすぐは、確か1試合だけ先発したんですけど、以降はまったく見向きもされなくなり、一気に序列が落ちていってメンバーにも入れなくなったんです。挙げ句、忘れもしない冬の移籍ウインドウが閉まる最終日に、『新しい選手を登録したいから出て行ってほしい。契約書にサインしてくれ』とクラブに迫られました。その時はすでに事務所の下で、新たに獲得しようとしている選手が待っている状況でした。

 でも、結局は実力の世界なので。

悔しさはあったけど、簡単に言うと、僕が勝負に負けた、クラブに求められるほどのパフォーマンスを出せなかったというだけのこと。もっといい選手になるしかない、と受け入れました」

 そうしてセビージャを離れることになった清武のもとには、ブンデスリーガを含めていくつかの海外クラブからオファーが届いたものの、最終的に彼はJリーグ復帰を決断する。ハノーファー時代の2016年にプライベートで思わぬ悲しみに直面して家族が日本に帰国したため、単身生活が続いていたなかで、「これ以上、家族と離れて暮らしたくない」という思いが強くなっていたこと。何より、日本を離れる時から「自分が動けるうちに、セレッソに戻りたい」と思っていたことが理由だ。

 当時は27歳。そのタイミングが今だと帰国を決めた。

(つづく)◆清武弘嗣はなぜ、過酷なリハビリに挑み続けるのか 「温かい応援に甘んじず...」>>

清武弘嗣(きよたけ・ひろし)
1989年11月12日生まれ。大分県出身。大分トリニータのアカデミーで育ち、2008年にトップチームに昇格。2010年、セレッソ大阪に完全移籍して才能が開花。2012年にドイツのニュルンベルクに移籍。以降、ハノーファー、スペインのセビージャでもプレー。

2017年にセレッソ大阪へ復帰し、2024年にサガン鳥栖へ期限付き移籍したあと、2025年に古巣の大分へ完全移籍。その間、日本代表、五輪代表でも活躍。2012年ロンドン五輪、2014年ブラジルW杯に出場した。国際Aマッチ出場43試合5得点。

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