ベテランプレーヤーの矜持
~彼らが「現役」にこだわるワケ(2025年版)
第10回:清武弘嗣大分トリニータ)/後編

清武弘嗣はなぜ、過酷なリハビリに挑み続けるのか 「温かい応援...の画像はこちら >>

前編◆清武弘嗣にとって干された数カ月が「プロ」としての原点になった>>

後編◆清武弘嗣が感じていた日本代表への中毒性 海外移籍を決断した真相>>

 セビージャでの半年間の戦いを終えた清武弘嗣が、新たなキャリアに選んだのは古巣、セレッソ大阪だった。その頃にはかつて「海外には興味がない」と言っていた自分が嘘のように、異国の地でプレーする楽しさや、そこで見出せる成長、日本とは異なるスタジアムの熱狂に面白さを感じるようになっていたが、家族と離れて暮らす息苦しさもあったのだろう。

最終的に彼は「サッカーをするうえで自分らしくいられる場所」を選択する。

「セレッソは、サッカーの本質、楽しさを教えてくれたクラブ。なのに、セレッソのエース番号である8番を背負ったシーズンにチームを離れてしまったので。いつかセレッソに恩返しをするためにも、『自分が選手として旬のうちにセレッソの力になりたい』という思いはずっと持ち続けていました。結果的に思わぬ形でセビージャを離れることになりましたけど、それもキッカケなのかな、と感じた部分もありました。

 また、僕にとって家族は何よりも大事な宝物なので。家族と離れて生活をすることに耐えられなくなっていたのも事実で、そういった自分の弱さもあったとも思います。ですが、最終的には妻や子どもたちのもとでサッカーをする道を選びました」

 日本復帰に際してはいくつかのJ1クラブへの移籍も噂されたが、清武曰く「日本というより、セレッソに帰ることしか頭になかった」そうだ。その思いがクラブにも届き、2017年2月1日、セレッソへの完全移籍が発表される。その4日後、シーズン前のキャンプを行なっていた宮崎での記者会見では明確に目標を口にした。

「チームを勝たせられる選手になりたいし、みんなが思っているように、僕もこのチームで"タイトル"を獲りたい。それを手にすることで、セレッソはもっともっと強くなれると思っています」

 その言葉に嘘はなく、清武は加入から3試合目の先発出場となったJ1リーグ第9節の川崎フロンターレ戦で移籍後初ゴールを決めると、それを機にコンスタントにピッチに立ち、得点を重ねていく。

 その後、6月末の第16節・ベガルタ仙台戦で左ハムストリング筋損傷を患い、しばしの離脱を余儀なくされたが、9月末に再び戦列に戻ってからは再びチームの主軸に。ルヴァンカップ決勝の川崎戦ではフル出場でチームに初のタイトルをもたらすと、天皇杯決勝でも先発フル出場を果たし、延長戦の末に横浜F・マリノスを下してシーズン二冠に貢献した。

「僕自身はケガもあったし、シーズンを通して稼動できたわけではなかったけど、最初にセレッソに在籍した時代を思い出すような、たくさんのいい仲間に恵まれました。蛍(山口/現V・ファーレン長崎)、宏太(水沼/現ニューカッスル・ユナイテッド・ジェッツ)、(柿谷)曜一朗、健勇(杉本/現大宮アルディージャ)ら、互いを高められる同世代も多く、本当にみんなに助けられ、引き上げてもらいながら、その仲間とふたつのタイトルを獲れたのもめちゃくちゃうれしかったです。

 僕自身はあまり力になれなかったけど、自分にとってはすごく意味深いシーズンだったし、こういう瞬間をもっともっとセレッソで味わいたいという思いがより強くなった"タイトル"でした」

 もっともその思いとは裏腹に、以降のシーズンはケガに苦しみながらキャリアを積み上げることになったのは、前編でも記したとおりだ。復帰後初めて、シーズンを通してフル稼働できた2020年は8ゴール8アシストと結果を残し、リーグ4位の原動力になったものの、2022年半ば以降は長期離脱を強いられるケガも増え、出場機会を大きく減らしてしまう。

 それでも、そのたびにリハビリに全力を尽くし、ピッチに戻ることを目指しながら戦い続けたなかで2024年は、クラブ設立30周年の節目のシーズンだったのもあってだろう。シーズン前のキャンプからチームとスタートを切れたことも追い風に「もう一度、タイトルを」という思いを強めていたが、結果的には思うように試合に絡めず、同年夏にはサガン鳥栖への期限付き移籍を決断する。

「2023年は2月に左ハムストリングを痛めて、7月には一旦復帰して天皇杯にも出場したんですけど、翌日の練習でスプリントした際にまた同じ箇所を痛めてしまって。メディカルスタッフとも相談し、7月末にオペに踏み切ったんです。

 そのなかで、リーグのラスト2試合には限られた時間ながらピッチに立てたし、その流れでスタートした2024年も、クラブの節目の年にタイトルを、という思いで臨んでいました。だからこそ結果的に、何も残せずにセレッソを離れることになった自分が悔しく、情けなかったし、応援してくれるファン・サポーターの皆さんにも申し訳ない気持ちしかなかったです。

 ただ、体の状態がよくなっているのを感じていたからこそ、試合に出たい、出なくちゃいけないという思いも日に日に強くなっていたし、試合に出場しないと戻っていかない感覚があるのも自覚していたので。後ろ髪を引かれながらも『サッカー選手としてのキャリアを続けたいのなら』と、半ば自分で自分のケツを叩くようにセレッソを離れる決心をしました」

 その鳥栖で過ごした2024年7月からの半年間は、再びサッカーの楽しさを思い出しながら、サッカー選手として「まだまだやれることがある」と思える時間になった。

「期限付き移籍をする前から鳥栖の選手には、(監督の川井)健太さんのサッカーはめちゃくちゃ面白いと聞いていて、それも鳥栖に行く決め手になったんですけど、本当に健太さんのサッカー観やチームづくりは、超面白かったです。現代的な縦に速いサッカーではあるんですけど、一つひとつの動きに明確な理論があって、なるほど! と思うことも多く毎日、練習に行くのが楽しみでした」

 また、たくさんのサッカーに対する気づきをもらった「めちゃめちゃ濃厚な半年だった」とも言葉を続ける。

「それまで、僕はあまり個人のプレーについて言われてこなかったというか。20代前半に出会ったレヴィー・クルピ監督には数字への意識のところを口酸っぱく言われましたけど、プレー自体はずっと感覚でやってきた部分が大きかったんです。

 でも、健太さんは『こういう状況では体の向きをこうしたら動きやすいぞ』『ヘソをこっちに向ける意識を持ったら次のプレーがしやすいだろう』みたいに一つひとつのプレーを細かく言語化して伝えてくれた。実際にその意識を持つと『確かに!』と思えることも多かったですしね。

 それによって、同じプレーをしていてもより確信を持ってプレーできるような感覚になることも多かった。結果的に監督交代になってしまいましたけど、(後任の木谷)公亮さんもその流れを受け継いでくれて、すごくいいチームになったし、だからこそ何が何でもこのチームでJ1に残留したいという思いは強かったです。

 たった半年でこんなに愛着を持てるクラブになるんだって、自分でも驚くくらい鳥栖への思いを強めていたし、『このチームのために』『監督のために』と思える自分もいました。結果的にJ2降格となり、僕自身も半年でチームを離れることになりましたけど、サッカー人生の終盤に鳥栖でプレーできたことも、こうしてサッカーをうまくなりたいと思い続けられていることにつながっている気がします」

 2024年限りで期限付き移籍元のセレッソとも契約満了になったことを受けて2025年、清武が新天地に選んだのは大分トリニータだ。

サッカー選手としてのキャリアをどういうモチベーションで過ごすのかを考えた時に、自分の情熱をわかりやすく燃やせる場所はひとつしかないと考えた。

「セレッソ、鳥栖とそれぞれに自分の情熱を燃やす理由が明確にあったからこそ、2024年のシーズンを終えて、少し自分が"空っぽ"になっているのを感じたんです。それもあってこの先、自分のサッカーに対する情熱をどこに持っていけばモチベーションを高い状態で維持しながらサッカーができるのか、考えてみました。

 そこで浮かんだのが、大分でした。アカデミー時代から育ててもらい、プロにしてくれた大分をもう一度J1に昇格させることが自分にとって何よりのやりがいであり、モチベーションにつながると思いました」

 実際、その情熱は加入して1年が経とうとしている今も色褪せていない。ケガによる離脱はあったものの、サッカーに対するモチベーションも常にピークの状態でシーズンを進んできたという。ただ一方で、地元の人たちの温かさ、サッカー愛に触れるたびに、17年ぶりに舞い戻った大分に対して、危機感を抱いているのも正直なところだ。

「大分は相当、地元の人たちに愛されていると思うんです。この半年は、治療も兼ねてよく地元のプールにも足を運んだんですけど、そこで出会う60代、70代のおっちゃん、おばちゃんたちと会話をしていても、それはすごく感じます。大分の結果もよく知っていて『この間の試合はようやく勝てたな』『負けちゃったな』みたいな声もよくかけられたし、『トリニータもなかなか勝てんなぁ。悔しいけど応援するで』みたいな言葉から愛情を感じる機会もたくさんあります。

 でも、そういう人たちと接するたびに、『こんなに地元に愛され、応援してもらっているクラブが今のままでいいのか?』という思いが湧いてくるというか。

本来、プロクラブというのは、応援してもらうことに対して、サッカーの面白さや勝つ楽しさを伝えること、"結果"で応えることが役目であるはずだと思うんです。なのに、今の大分は『勝っても負けても応援してもらえるだろう』という甘えがどことなく漂っていて、プロクラブの本質を見失っているようにも感じます。

 でも、それではこの先、応援してくれる人の数がどんどん減っていってしまうと思うんです。実際、地元の人と話していても『私たちは応援しているけど、あまりに勝てないから孫はもう応援に行っていないわ』みたいな声もよく聞きますしね。だからこそ、チームだけではなく、もっとクラブ全体で勝つことを求めなくちゃいけないというか。

 実際、去年、今年と2年続けてJ2の残留争いに巻き込まれたことにも、もっと危機感を持たなければいけないし、温かい応援に甘んじず、しっかりと結果で応える姿を取り戻さなきゃいけない。ケガをしている今、こういう厳しいことを言うのは心苦しいんですけど、でも僕は大分が勝つ姿を取り戻すためにこのクラブに戻してもらったと思っているので。その覚悟を来シーズンは自分も含めてしっかり示せるクラブ、チームでありたいと思っています」

 以前に在籍していた時はもちろん、チームを離れてからも、常に大分の結果を気にかけ、大分への愛着を持ち続けてきた清武だからこその言葉だろう。かつて在籍していた2008年にJ1リーグでクラブの歴代最高順位となる4位に上り詰めたり、ナビスコカップ(現ルヴァンカップ)で初タイトルを手にした時の、地元の盛り上がり、熱狂を知っている彼だからこそなおさら、その姿を取り戻したいという思いが強いのかもしれない。

 そのためには、当然ながら自分自身も来シーズンこそしっかりとピッチに立って、チームを牽引しなければいけないという思いもある。

「先(前編)にも話したとおり、自分が大事にしてきたプレーの感覚的なところが失われているのを体感したら、その時は引退します。でも、今はまだそうじゃないから。

 それに真司くん(香川/現セレッソ大阪)にしても秋くん(倉田/現ガンバ大阪)にしても、アキちゃん(家長昭博/現川崎フロンターレ)にしても、蛍にしても、かつてのチームメイトがみんな、めちゃくちゃ頑張っていますからね! 彼らの姿を見ていたら、自分も負けていられないって思います。

 ケガのたびに、みんなが連絡をくれて『まだやるでしょ』『どうせキヨはまた(リハビリを)頑張っちゃうんだよね』と言ってくれることにも勇気をもらっています。あっ、そういえば、ひとりだけ、僕に『もういいでしょ!』って言ってくれる先輩がいたな~」

 その先輩だけは、ケガのリリースが出るたびに真っ先に連絡をくれて「引退を勧めてくる」そうだ。

「岡ちゃん(岡崎慎司)です! 岡ちゃんとは常日頃から話をしているし、僕のケガの話も聞いてもらっているからだと思いますけど、今回のケガをした時も『岡ちゃん、俺、もうちょっとやります』って伝えたら『どこまでサッカーしたいねん! そこまでやったらもう十分やって。これ以上、リハビリ、しんどすぎるやん!』と言われました(笑)。

 でも僕にとってはそう言ってくれる人がいるのもすごくありがたいです。気持ちもラクになるし、岡ちゃんを見返してやろう、とも思うから......って伝えたら、いつも『もうええわ! おまえに何を言っても無理やから、ここまできたら最後までやり抜け!』と。最後はいつもそうやって背中を押してくれるんですけどね。それに......やっぱり、自分ではまだ『十分ではない』んですよね」

 一拍置いて、言葉が熱を帯びる。

「あまりにリハビリ期間が長すぎて、時々『俺は何のためにこんなに体を鍛えてるんやろ?』とか『何のために戦ってるんや?』って思うことはあります。でも、サッカー選手としての自分に対して、よくやっているなと思ったことは一度もない。

 それに、僕が達成感を持っていいのは、この大分を何としてでもJ1に昇格させてからなので。

それをチームのみんなと実現して初めて、自分のキャリアに対する"答え"も出るような気もしています」

 そのために、彼は今日もリハビリという途方もない戦いに真っ向勝負を挑み続けている。36歳になった今も、心の奥底から何度でも湧き上がってくる「ボール蹴りてぇ、思い切り走りてぇ、サッカーしてぇー!」という感情に背中を押されながら、だ。

 そしてその熱は、必ずや清武弘嗣を再びピッチで輝かせる。

(おわり)

清武弘嗣(きよたけ・ひろし)
1989年11月12日生まれ。大分県出身。大分トリニータのアカデミーで育ち、2008年にトップチームに昇格。2010年、セレッソ大阪に完全移籍して才能が開花。2012年にドイツのニュルンベルクに移籍。以降、ハノーファー、スペインのセビージャでもプレー。2017年にセレッソ大阪へ復帰し、2024年にサガン鳥栖へ期限付き移籍したあと、2025年に古巣の大分へ完全移籍。その間、日本代表、五輪代表でも活躍。2012年ロンドン五輪、2014年ブラジルW杯に出場した。国際Aマッチ出場43試合5得点。

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