東京ヴェルディ・アカデミーの実態
~プロで戦える選手が育つわけ(連載◆第25回)
番外編:横山暁之(ジェフユナイテッド千葉)インタビュー/前編

Jリーグ発足以前から、プロで活躍する選手たちを次々に輩出してきた東京ヴェルディの育成組織。その育成の秘密に迫る同連載、今回から現在ジェフユナイテッド千葉で「10番」を背負う横山暁之のインタビューを3回にわたってお送りする――。

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第24回◆東京Vのアカデミー時代、試合に出られなかった選手が「プロになるため」に選択した道>>

――プロサッカー選手になるという小さい頃からの夢をかなえた横山選手ですが、北陸大学卒業から藤枝MYFC入りするまで1年の空白期間がありますね。

横山暁之(以下、横山)それは、大学4年生の9月頃にリーグ戦でケガをしたからなんです。

――どんなケガだったのですか。

横山 左ヒザの半月板です。半月板の縫合手術をやって、復帰まで6カ月かかると言われました。それで大学最後の半年間はもう何もできず、試合にも出られず、でした。

――その時、まだ進路は決まっていなかったのですか。

横山 僕はデンソー(カップチャレンジ)の(北信越)選抜にも入っていないし、全国大会(全日本大学サッカー選手権大会)も1年生の時しか出られなくて、名前も全然売れていなかったので、もちろん(Jクラブからの)オファーがくるわけもなく......。自分から(Jクラブに)練習参加をお願いして売り込まなければいけなかったのに、ケガをしたことによってそれができなくなってしまった。Jリーグに限らず、JFL(のチーム)も、地域リーグ(のチーム)も行けないっていう状況でした。

――それでもプロになるという気持ちは変わらなかった。

横山 大学は一応卒業していたので、ふつうはケガをしたタイミングで、たぶん(プロになるのを)あきらめて就職するんですよ。

なのに僕は、その時も正直、本当にアホで(苦笑)。「いや、オレ、絶対プロになれる!」って思っていたんです。

――そこからは、どうしたのですか。

横山 もう大学は卒業していたんですけど、北陸大学サッカー部の寮があったので、そこに居候させてもらって、バイトの掛け持ちをしながら、どこか入れるチームをずっと探していたっていう......、なんて言うんですかね......、フリーターみたいな状況でした。

――その間は、北陸大学のセカンドチームに所属していたという情報もあります。

横山 ウィキペディアにそう書いてあるんですけど、どこにも所属していませんでした。

――だとすると、もう完全に......。

横山 フリーターです。大学の寮もさすがに申し訳なくなって、夏ぐらいには出て、ひとり暮らしをしていました。

――1年間、プレーしていなかったのですか。

横山 いや、大学卒業直前の3月にケガから復帰したあと、4月にはツエーゲン金沢(当時J2)の練習に参加させてもらいました。

――どのくらいの期間、練習参加したのですか。

横山 最初は2日間とか、3日間とかの予定だったんですけど、興味を持ってくれたみたいで、「週末まで来てほしい」となって、週末までやったら「もうちょっと見てみたいから、あと1カ月来てほしい」という感じになりましたね。

――それでも、金沢と契約するまでには至らなかったんですか。

横山 そのタイミングで、またヒザをケガしてしまったんです。結局、ツエーゲンには入れず、またリハビリ生活になりました。ちょっと無理をしていたんですよね、「これはチャンスだ!」みたいな感じで。「千載一遇のチャンスだから、足が痛くてもやるしかねえ」と思ってやっていたんですけどね......。

――大学4年の時のケガがぶり返した。

横山 そうです。それが治ったのが9月くらいで、そこからはまた、練習参加の日々が続いたのもあって、どこかのチームに所属しようとは考えませんでした。心のどこかで、「チームに所属してしまうと練習参加に行きづらいな」っていう気持ちもあったので、「もうフリーターでいいや」みたいな。なので、9、10月の2カ月くらいは、北陸大学の練習にまぜてもらっていましたが、それ以外はどこにも所属せず、フリーでやっていました。

 ただその頃は、結果的にツエーゲンには入れなかったんですけど、(興味を持ってもらえたことで)ちょっと自信がついていたところは確かにあったかもしれないです。

(つづく)

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