あの人はいま~田原豊(前)

「明確なビジョンを持って帰ってきたわけじゃないんですけどね。ちょっとしたタイミングです。

おかんの病気のこともあったし、都会で夢を見られる年齢でもなくなった。自分の人生はつくづく人に支えられてきたと感じていますが、もう43歳。今後は人に助けられるんじゃなく、自分で何かできたらと思っています」

 鹿児島県霧島市JR国分駅前。まだ暑さが厳しい夏の終わり、大粒の汗をかきながら、田原豊は姿を見せるなり、そう言って笑顔を見せた。

 187センチの長身に加え、圧倒的な身体能力の高さを生かし、2001年から横浜F・マリノス、京都サンガ(現京都サンガF.C.)、湘南ベルマーレなどでFWとして活躍。15年に鹿児島ユナイテッドでのプレーを最後に引退した。現役引退後は約10年、都内近郊でサラリーマンとして働いてきた田原は、今年6月に故郷の鹿児島へ戻った。

高校サッカーのヒーローが現役引退して10年 サラリーマン生活...の画像はこちら >>
 30年以上のJリーグの歴史を振り返っても、豪快さという点で田原は指折りのストライカーだった。そんな田原が人材派遣会社、不動産業、サッカーメディア事業を展開する会社で会社員として働いていたと聞けば、驚く人も多いのではないか。

「みんな、僕なんかが普通の仕事を続けられるとは思っていなかったんじゃないですか(笑)。

 最初はツテもなく、IT関連の人材派遣会社の面接を普通に受けに行きました。その次が不動産会社で、そこでは主にスーツを着て投資用マンションの営業をしていました。

転職のきっかけは、FW出身ということもあって、『数字で結果を出す世界』に惹かれたんです。

 サッカーでもゴールという"数字"で評価されてきたので、歩合制の仕組みを聞いた時に、自分に合っているような気がしました。ただ、もともと数字が苦手な自分に、資産形成の的確なアドバイスができるほど、世の中は甘くない。毎日スーツを着るのも苦痛で、それほど稼ぎもなく、4年が限界でした」

 その後、知人の誘いを受け、高校サッカーの情報などを発信する埼玉の会社で約4年働いた。

【一般社会のルールに苦労】

「主に高校サッカーの大会や試合などを取材してニュースにするのが仕事でした。サッカーに関われたし、関東圏での取材が多かったですが、現場では現役時代からの知り合いに再会することも多く、仕事自体は楽しかった。それまでの仕事に比べれば自分に合っていたと思います」

 ただ、田原にとってサッカーはプレーするものであり、現場で取材し、パソコンを使って原稿を書くことは想像以上の苦労だったようだ。

「たとえば試合を記事にする場合、過去の戦績とかを事前にリサーチしたりしますよね。他のライターさんは、みんなやっていたと思います。ただ僕は、見習わないといけないと感じつつもできなかった。取材するにしても、高校サッカーは、選手の顔を覚えていないとコメントを取るのも簡単じゃない。難しさはありました」

 現役時代は豪快なプレースタイル同様、長髪に髭を蓄えるなど、ワイルドな風貌も印象的だった。ストライカーとして相手を威圧するためにも、それは必要なことだったが、一般社会のルールは田原にとって少し窮屈だったのかもしれない。

「ボサボサの髪も無精髭も、半分は面倒だったからですけどね。プロの世界はそれでも許されます。でも、一般社会は違うじゃないですか。就職した際、マナー研修というのがありました。その時にお客さんに対応する際の歩き方の講習があり、講師の方に『どっちがお客さんかわからない』と指摘されました。現役時代は意図的にふてぶてしい歩き方をしていたこともありましたが、それが抜けきれていなかったみたいです(笑)」

 今後については模索中だが、「サッカースクールができたら」とも話す。

「先日、日本歴代最高のストライカーと呼ばれた釜本邦茂さんがお亡くなりになりましたけど、日本サッカーはずっと"ストライカー不足、決定力不足"って言われているじゃないですか。僕も現役時代に"釜本2世"なんて言われた時期もありました。もちろん、言われた割にA代表には呼ばれもせず、結果を残せなかった。それでも、僕はずっと世界で戦える自信はありましたし、呼ばれたら結果を出す自信はありました。そういう経験というか感覚を、子どもたちに伝えたい思いはあります」

【ストライカーがストライカーを教えていない】

「最近のスクールは、どこも似たような考えを持つ指導者が同じようなことを教えていると聞きます。それだと、まんべんなく選手は育つかもしれませんが、突出した選手は育たない。

選手はひとりひとり個性が違うし、僕はそれぞれの個を伸ばすような指導ができたらとの思いがあります。

 サッカーはテクニックを競うスポーツじゃない。とくにゴール前では格闘技の要素もあるし、戦いでもある。高校サッカーを取材していた時、よく指導者が『パスが何センチ横にズレた』とか言っているのを聞きましたが、実際の試合でパスがぴったりくることなんてそうないですよ(笑)。僕がスクールをやるなら、そんな細かなことにはこだわらないですね」

 日本サッカー界で「ストライカー不在」が長く指摘されている点については、こう続けた。

「ストライカーがストライカーを教えていない。それが一番の問題じゃないですか。点を取る感覚は理屈じゃない。体の使い方、駆け引き、間合いの詰め方。全部、経験でしか教えられないですよ」

 鹿児島県霧島市は人口12万人の小さな都市。サッカーが盛んな地域だったとしても、すでに近隣には複数のサッカースクールがあり、新規参入が簡単でないことは理解している。

「僕もやる以上は慈善事業というわけにはいきません。

"ストライカー専門"でやるわけにもいかないし、すぐに形になるかもわからない。どうすべきか、じっくり考えていきたい」

 現役引退から10年、故郷で新しい暮らしを始めた田原。一方で胸の内には、いまも現役時代のさまざまな思いや記憶が残っているという。
(つづく)

田原豊(たはら・ゆたか)
1982年4月27日生まれ。鹿児島県姶良(あいら)市出身。鹿児島実業高校時代は、恵まれた体格から繰り出す豪快なプレーで超高校級FWと称された。2年時の高校選手権では1学年上の松井大輔との2トップで攻撃をリードし、準優勝に貢献。2001年ワールドユース(現U-20ワールドカップ)では背番号9を託され、全3試合に出場した。Jリーグでは横浜F・マリノス、京都サンガ(現京都サンガF.C.)、湘南ベルマーレ、横浜FCと渡り歩き、京都で2度、湘南で1度のJ1昇格に貢献。2014年にタイのサムットソンクラームを経て、2015年の鹿児島ユナイテッドでのプレーを最後に引退した。

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