あの人はいま~田原豊(中)

「もしあそこで決めていたら、自分のサッカー人生は変わっていたかもしれない」

 田原豊がいまも悔やむのは、横浜F・マリノスの高卒ルーキーとしてJリーグにデビューした2001年のJ1開幕戦、ヴィッセル神戸戦のことだ。後半途中から出場し、Vゴール方式の延長戦に入ったなか、マークに来たブラジル人DFシジクレイを振りきり、GKと1対1の決定機を迎えた。

しかし、シュートは枠を捉えなかった。逆に神戸にVゴールを許し、横浜FMは敗れた。

「あの大柄なシジクレイを吹っ飛ばしましたからね。あれを決めていたら、めちゃめちゃヒーロー。その後のキャリアも変わっていたと思います」

 田原は鹿児島実業高校2年時の高校選手権で、1学年先輩の松井大輔(元日本代表)と強力2トップを形成し、チームを決勝まで導いたことでサッカーファンにその名を知られた。その後、2001年のワールドユース(現U-20ワールドカップ)では9番を背負い全3試合に出場。10代の時から持ち前のフィジカルの強さを武器に、世代屈指のFWとして高い評価を得ていた。

超高校級ストライカーが「未完の大器」で終わった理由 田原豊「...の画像はこちら >>
「マリノスに入ったばかりの頃の紅白戦で、元日本代表の屈強なDF小村徳男さんをなぎ倒し、『なんだコイツ?』って、見られたこともありました。そのくらい体の強さには自信がありました」

 打点の高いヘッドはもちろん、身体能力の高さを生かしたアクロバティックなスーパーゴールを決めることも多く、その豪快なスタイルから"和製イブラヒモビッチ"と称されたこともあった。一方で「安定感に欠ける」「練習嫌い」「スタミナ不足」といった評価もついて回り、15年のプロ生活はJ1とJ2を行ったり来たり。結局A代表には1回も招集されることはなく、「未完の大器」というレッテルがつきまとった。

 本人はそうした周囲の評価をどう受け止めていたのだろうか。

「正直に言えば何とも思っていませんでした。周りの発言は、『だから何?』って感じだったので。自分は周囲に影響されるタイプじゃないし、こうと思ったことを曲げる人間でもない。もちろん、一般社会では『人の意見を聞きなさい』が常識ですが、サッカー選手としてはそれがいいことなのかどうか......」

【信念や厳しさが足りなかった】

 練習は好きだった。でも、走るのは大嫌い。鹿実時代に田原が走りの練習をよくサボっていたのは、広く知られた話だ。プロになってからも、若い頃はサッカーが仕事になった感覚は薄く、部活の延長で"頑張ったらお金がもらえる"程度にしか考えていなかったと振り返る。

「サッカーを仕事として考えれば、2、3時間の練習だけが仕事じゃないですよね。プロなら、体のケアや食事に気をつけるのは当たり前。でも、当時の僕はそこまで意識が回らず、奔放に生きてしまった。それが大成できなかった要因だったのかなと思います」

 プライベートな問題で"0円提示"を受けたことや、サラリーを50%カットされたなかでシーズンをスタートしたこともあった。

「年俸が半分になると、税金を払うのも厳しい。それを何で補うかといえば、結果(によるボーナス)しかない。

とにかく必死でした」

 同じ九州出身で同学年の大久保嘉人(国見高出身、J1最多の191点)は、高校時代からのライバルで顔なじみだった。ともにユース代表に名を連ね、田原には大久保以上に将来を嘱望する声もあった。だが、終わってみれば水をあけられてしまった。

「FWって、絶対に我が強くないと成功できない。周りに何か言われて、いちいち下を向いていたらやっていられないですから。そういう意味で、嘉人は我が強かったし、自分への厳しさや信念があった。だからこそ、あそこまで結果を出せたんだと思います。

 よく、学生時代にヤンキーだったけど、社会に出て社長になるなど成功する人っていますよね。ああいう人は、たいてい硬派で信念が強い。僕にも我の強さはありましたけど、信念や厳しさが足りなかった。自分に甘いんですよ(笑)」

 懸命にプレーしていないのではないか――。そんな評価を受けたこともあったが、田原は首を横に振った。

プロとして「試合に勝ちたくない」とか「負けてもいい」と思ったことは一度もないし、ベンチに座っていれば、どんな時であれ「点がほしいなら自分を出すべき」と強く思っていたという。

 京都時代、当時の加藤久監督から叱責された際に、怒りが収まらなかったというのも純粋な田原らしいエピソードである。

【反省はあっても後悔はない】

「たしか連敗していたなか、途中出場した試合で途中交代させられたと思うのですが、試合後に久さんから電話がかかってきて『オマエ、やる気あるのか? 明日から練習に来なくていい!』と怒鳴られたんです。久さんも試合に負けてフラストレーションが溜まっていたとは思います。でも、その時は本当に頭にきました。

 だって、試合に勝ちたくない選手がいると思いますか? 『やる気あるのか?』と言われた時は、まるで自分のすべてを否定されたようで、思わず電話口で言い返してしまった。翌日、監督室に行って『すみませんでした』と伝えましたけど、納得したわけじゃない。プロの世界は適当にやって結果を出せるほど甘くないし、まして自分の生活がかかっているのに、懸命にやらないわけがないじゃないですか」

 ピッチでは常に全力で取り組んだ。足りなかったことがあるとすれば、プロとしての自覚だったかもしれない。

「当時はそれを教えてくれる人がいなかった。僕が若い頃は、まだJリーグバブルを引きずった羽振りのいい先輩も多かったですから。僕はお酒を飲まないし、あまり人とつるむようなことはなかった。

ただ、いまのように選手がオンもオフも真摯に競技に向き合うのが当たり前、という時代でもなかった。

 思えば僕は、横浜、京都、湘南――誘惑の多い街でプレーしてきました。もっと田舎でサッカーに集中できる環境だったら、多少はキャリアも違っていたんですかね(苦笑)」

 引退後、一般社会に出たことで、周囲の声に耳を傾けなければ生きていくのが難しいことは理解している。だが、サッカーに関してはいまも自分の信じた考えが揺らぐことはない。

「高校時代は、走りの練習用の赤いコーンがグラウンドに置かれていると、練習に出ず、遊びに行ってしまった。若い頃にもっと走ってスタミナをつけていたら、プロでの違う結果があったかもしれない。スタミナがあれば、もう少し守備で頑張れたでしょうし、プレーの精度や判断力が変わっていたかもしれません。

 でも、"たられば"に意味はないとも思っています。むしろ、僕が周囲の声を聞きすぎていたら、プロにさえなれなかったかもしれない。僕がこういう性格だったからこそ届いた景色もあるはずで、それを含めて自分の人生。反省する部分はあっても、後悔はまったくありません」
(つづく)

田原豊(たはら・ゆたか)
1982年4月27日生まれ。鹿児島県姶良(あいら)市出身。

鹿児島実業高校時代は、恵まれた体格から繰り出す豪快なプレーで超高校級FWと称された。2年時の高校選手権では1学年上の松井大輔との2トップで攻撃をリードし、準優勝に貢献。2001年ワールドユース(現U-20ワールドカップ)では背番号9を託され、全3試合に出場した。Jリーグでは横浜F・マリノス、京都サンガ(現京都サンガF.C.)、湘南ベルマーレ横浜FCと渡り歩き、京都で2度、湘南で1度のJ1昇格に貢献。2014年にタイのサムットソンクラームを経て、2015年の鹿児島ユナイテッドでのプレーを最後に引退した。

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