あの人はいま~田原豊(後)

「出場試合数でいえば(得点は)5試合に1点くらい。ただ、出場時間から考えたら悪くないアベレージじゃないですか」

 田原豊はプロとして実働15年で、J1通算95試合13点、J2通算208試合49点。

Jリーグ通算で303試合62点を挙げた。途中出場が多かったことを思えば、ストライカーとして悪い数字ではない。

 特にJ2ではゴールを量産し、京都パープルサンガ時代の2005年と2007年には、いずれも9ゴールでチームのJ1昇格に貢献。湘南ベルマーレに移籍した2009年にも10ゴールでJ1昇格の立役者のひとりとなった。先発の機会は限られていたが、途中出場から試合の流れを変える"スーパーサブ"として田原のインパクトは絶大だった。

「ヘディング、胸トラップからのボレー、オーバーヘッド。浮いたボールは得意でした。でも、GKと1対1は本当に苦手。ドリブルシュートはひとつもないんじゃないですか(笑)」

 ネットで検索すれば、いまも豪快なボレーや打点の高いヘッドなど、田原のスーパーゴールはいくつも見つけることができる。なかでも京都時代の2007年、第47節の愛媛FC戦で見せた、DFを背負ったなかでの派手なオーバーヘッドは、いかにも田原らしい一発だった。だが、ベストゴールはほかにあるという。

「愛媛戦のオーバーヘッド、2007年の(サンフレッチェ)広島との入れ替え戦での2得点や、(横浜F・)マリノス時代に中村俊輔さんのアシストから決めたJ初ゴールなどは覚えています。

ただ、いちばん満足度が高かったのは京都時代の2005年、アウェーの(サガン)鳥栖戦で決めた終了間際の決勝ゴール(3-2で勝利)。斜め後ろから来たクロスボールを、胸トラップでマークに来たDFをひとり剥がして逆サイドに決めました。自分としてはダイレクトで決めたゴールよりも、ひと手間かけたゴールのほうが好きなんです」

釜本邦茂を想起させたストライカー田原豊が振り返る 豪快弾の数...の画像はこちら >>
 そんな田原の才能をいち早く見抜き、ユース代表に抜擢したのは、2001年のワールドユース(現U-20ワールドカップ)でU-20日本代表監督を務めた西村昭宏(現大阪府サッカー協会)である。鹿児島実業高でプレーしていた田原を初めて見た時の印象を、西村はいまも鮮明に覚えているという。

【もっと活躍できる可能性があった】

「当時、鹿実には松井大輔がいて、松井を見に行ったら1学年下の豊に目が行ったんです。プレーは粗削りでしたが、サイズがあって体もガッチリしていた。ジャンプしてもゴムマリのようにポンっと飛び上がる。お父さんが元相撲取りだと聞いて、『これは面白い選手になるかもしれない』と思いました」

 現役時代に日本サッカーリーグのヤンマーで「日本サッカー史上最高のストライカー」と名高い釜本邦茂とともにプレーしていた西村は、Jリーグ開幕後、ガンバ大阪の監督を務めた釜本をコーチとして支えた。田原を初めて見た時、頭に浮かんだのはその"原点"だったのかもしれない。

「私にとってのCFはイコール釜本邦茂でしたし、無意識のうちに豊を見て、『ガマさん(釜本)の高校時代はこんなんだったんちゃうかな』との思いはありました」

 それだけに、その後の田原のキャリアを思うと、西村の胸に指導者としての悔いも残っているようだ。

「たとえばワールドユースの予選を兼ねたアジアユース決勝のイラク戦でのヘディング弾も(試合は延長の末2-1でイラクが勝利)、世界基準のゴールだったと思います。ただ、豊は性格が優しすぎたというか。どこかで妥協してしまったのかな。

もっと彼にサッカーの楽しさ、奥深さを伝えることができていたら......。彼の指導に関わったひとりとして、申し訳なさと自分の力不足を痛感しています。もっと活躍できる可能性があったのは間違いないと思います」

 スケールの大きな選手だっただけに、田原がどんな選手に憧れていたのかも気になるが、特定の選手に憧れるようなことはなかったという。高卒で横浜F・マリノスに入団したものの、当時はJリーグの知識はほとんどなく、初ゴールをアシストしてくれた中村俊輔の存在すらよくわかっていなかったと振り返る。

「高校の進路相談の時、鹿実の松澤隆司先生(監督)からは『オマエが行きたいなら、どのチームにでも行けるぞ』と言われました。ただ、Jリーグについてはほとんど知らなかったし、僕はひとりでドリブルでゴリゴリいけるタイプではないので、誰かいいアシストをしてくれる選手がいるチームに行きたいと思ったんです。それでマリノスには中村俊輔というパサーがいると聞いたので、マリノスに行くことを決めました。実際チームに合流した時は、俊さんの顔と名前はまだ一致してなかったですけどね(笑)」

【遠藤航は「常に前が見えていた」】

 Jリーグでは、湘南で現日本代表主将の遠藤航と、横浜FCでは日本サッカー界のレジェンド・カズ(三浦知良)ともプレーした。

「カズさんは本当にストイック。それに信念が強い。だから、あそこまでできる。僕からすればリスペクトの塊。

でもマネはできなかったです(笑)」

 田原が遠藤とともにプレーしたのは、遠藤が高卒ルーキーとして湘南に入った2011年(J2)のこと。遠藤は同年34試合に出場しているが、田原も25試合に出場し7ゴールを挙げている。

「航のよさとしてよく守備の1対1の強さがフォーカスされますが、いちばんの魅力は常に前が見えるところじゃないですか。一緒にプレーしていた頃はセンターバックをやっていましたが、普通の選手なら躊躇してしまうような縦パスも、航は気にせず出してくれたので、FWとしてはすごくやりやすかった。

 もちろん、テクニック的に特別うまいというタイプではないし、当時はまさかのちにリバプールに移籍するなんて思ってもみなかったですけどね。

 体は大きくないけど、DFでありながら航の攻撃センスは群を抜いていました。守りの選手はリスクを冒さず、安全にサイドに散らしたり、フリーの選手に預けたりするものですが、航の場合は多少プレッシャーがかかっても、チャンスになると思えば迷わず出してくれた。それを当たり前のようにやってのける選手は、ほとんどいません。

 DFだからこそ、基本、性格は真面目。でも、攻撃でもしっかり持ち味を出せる。だから、あれだけ高いレベルでやっていけるんだと思います」

 その遠藤が主将を務める現在の日本代表は、メンバーの多くが欧州主要リーグでプレーしており、来年のワールドカップに向けてもアジア最終予選を圧倒的な強さで突破するほどに成長した。

「すごい時代になりましたよね。

たとえば久保(建英)くんなんか、少し前ならうまいだけの選手のように見えましたが、いまは自分のプレーに自信を持っていて、相手にとって本当に怖い選手になった。久保くんがどう思っているかはわからないですが、きっと『これなら勝負できる』とか、自分なりのパターンみたいなものを見つけたんじゃないですかね」

「航もそうだけど、みんなサッカーIQが高い。サッカーはひとりの選手がボールを持つ時間は限られていて、ボールを持っていない時にそれぞれがどう動くかが大事になってきますが、みんながどう動いたらいいかをわかっている。

 ただ、やっぱりストライカーだけは足りないみたいな(苦笑)」

 もし現在の日本代表のなかに田原がいたら?

「自分はひとりで打開してゴールを決められるタイプではない。でも、いまの代表には三笘薫や伊東純也など、サイドにいい選手がいるし、真ん中にいたらいいボールが来るでしょうね。めっちゃ点取れる気がします(笑)」

 田原は決して自分を過大評価しているわけでない。自分のスタイルに確かな自信を持っているだけなのだろう。

「一緒にプレーした選手に僕の印象を聞けば、ほとんどの選手が"ポテンシャルはワールドクラスだった"って言うんじゃないですかね」

 田原はそう言うと、少し照れくさそうに笑った。

 ピッチを離れて10年。43歳になっても、そこにはあの頃のままの純粋な田原がいた。

田原豊(たはら・ゆたか)
1982年4月27日生まれ。鹿児島県姶良(あいら)市出身。

鹿児島実業高校時代は、恵まれた体格から繰り出す豪快なプレーで超高校級FWと称された。2年時の高校選手権では1学年上の松井大輔との2トップで攻撃をリードし、準優勝に貢献。2001年ワールドユース(現U-20ワールドカップ)では背番号9を託され、全3試合に出場した。Jリーグでは横浜F・マリノス、京都サンガ(現京都サンガF.C.)、湘南ベルマーレ、横浜FCと渡り歩き、京都で2度、湘南で1度のJ1昇格に貢献。2014年にタイのサムットソンクラームを経て、2015年の鹿児島ユナイテッドでのプレーを最後に引退した。

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