【部活やろうぜ!】三浦龍司の「ちょっと濃すぎる」洛南高校時代...の画像はこちら >>

学校での部活を取り巻く環境が変化し、部員数減少も課題と言われる現在の日本社会。それでも、さまざまな部活動の楽しさや面白さは、今も昔も変わらない。

この連載では、学生時代に部活に打ち込んだトップアスリートや著名人に、部活の思い出、部活を通して得たこと、そして、今に生きていることを聞く──。部活やろうぜ!

連載「部活やろうぜ!」
【陸上競技】三浦龍司インタビュー 後編(全2回)

前編〉〉〉三浦龍司の小中学時代 「また行きたいな」と思って通い始めた陸上クラブ

【5時半:朝練→7時:勤行→朝食から登校】

「洛南高校時代はちょっと濃すぎますね。間違いなく、洛南高校に行っていなかったら今の自分はいないですし。今の自分の土台になっています」

 こう振り返るように、のちに世界に羽ばたく三浦にとって、京都で過ごした3年間は濃密なものだった。

「いろんな人から『結構厳しいところだよ』と聞いていたので、ちょっとビビりながら入学前に初めて合宿に参加したんです。関西に行くのも初めてでしたし、家を出て寮生活を送るのも初めてだったので、いろんなところで不安がありました」

 3年間を過ごした寮は学校のすぐ近くにあった。陸上部専用ではなく、バスケットボールバレーボール、体操、水泳といった他の部活動の生徒と一緒だった。一部屋につき、だいたい3~4人が生活を共にするのが通例で、三浦は体操部とバスケ部の同級生と3人部屋だった。

「寮に入りたての頃は、寮に住む長距離部員だけで5時半から朝練がありました。洛南高は仏教系の学校だったので、7時からは勤行(ごんぎょう)っていうお祈りする時間があり、その前後で朝食をとってから登校していました」

 洛南高の陸上部といえば、全員が坊主頭だが、そのほかにもこんな独自な部のルールがあったという。

「部のルールはいろいろあった気がしますけど、最初に驚いたのは、略語が禁止っていうことですね。タイムも端折らずに言え、と。例えば『5000m』なら『ゴセンメートル』と『メートル』まで言わなければいけませんでした。

『サンショー』もダメですね。『サンゼンメートルショウガイ』と。生徒だけで作ったルールだったと思うので、たぶん深い意図はなかったと思うんですけど」

 そんな独自のルールに少し戸惑うこともありつつも、三浦は京都での生活に馴染んでいった。

 地元の京都をはじめ関西圏を中心に実力者が集まってくるだけあって、部活動の競技レベルは相当高かった。

「周りは自分よりも速い人たちばかり。ウォーミングアップや動きづくりも初めて知るようなことが多かったです」と入学したばかりの頃を振り返る。

「全国区のレベルの高い選手もいるなかで、自分がどれくらい食らいついていけるのか探ることと、駅伝もあるのでメンバーに入れるように頑張ること、それが最初にぼんやりと立てた目標でした」

【3000m障害はデビュー戦から好走し高3で高校記録樹立】

【部活やろうぜ!】三浦龍司の「ちょっと濃すぎる」洛南高校時代 3000m障害ランナーとして築いた礎と他部活の生徒からも刺激を受けた寮生活
高3時には日本選手権などで
 そして、高校に入ってようやく、三浦の未来を切り開くことになる3000m障害にも取り組むことになる。中学生の頃に勧誘を受けた際に、陸上クラブの上ケ迫さんにも同席してもらい『3000m障害をやりたい』という旨を伝えていたこともあって、入学して間もなく同種目にチャレンジすることができた。

 インターハイ路線の第一歩、地区予選会が最初の試合だった。

「初めての試合はめちゃめちゃ覚えています。先輩からは『自分が遅いなって思うぐらいのペースで入ったほうがいい。そうじゃないと、きつくなるから。3000mの持ちタイムにプラス1分で走れれば上出来だ』と言われていたので、その心づもりはしていました。

 それで、だいぶゆっくり入ったつもりだったんですけど、残り1000mで体がパンパンになってしまって、動かないんです。『どんな種目やねん、これ』と思いましたね。それに、水濠も障害も最初はすごく怖かったです。独特な種目だなって思いました」

 意外なことに『怖い』というのが3000m障害に対しての三浦の第一印象だった。とはいえ、先輩のアドバイスにもあったとおり、3000mの自己記録プラス1分に満たない9分35秒07で走り、1位で京都府大会に駒を進めている。上々のデビュー戦だった。

「一発目にしては上出来でしたし、レースを重ねるごとにタイムも伸びていました。奥村先生としても手応えがよかったのか、結構チャレンジさせてもらえました。僕も、意外とうまく走れているんだなってわかって、『楽しいかもしれない』って思うようになりました」

 3000m障害は上級生になって取り組む選手が多いが、三浦は1年生にして京都府大会でも5位に入賞し、近畿大会に出場した。近畿大会は12位に終わり、全国には行けなかったが、三浦の言葉にもあるとおり、試合を重ねて着実に記録を伸ばしていった。そして、高2の終わりの3月には、アジアユースで初めて日の丸をつけた。

「初めての日本代表っていうのもあって、どんな感じなんだろうな、とか。

海外の選手と走るので、強い選手がいるのだろうなとか、いろんなことを想像して、ちょっとドキドキしながら大会に向かいました。重たいものを背負うという感じではなくて、逆に浮き足立っていた気がします」

 2000m障害に出場した三浦は、大会新記録を打ち立てて優勝を飾っている。

【高校記録連発と当時は「別次元」だった留学生の存在】

【部活やろうぜ!】三浦龍司の「ちょっと濃すぎる」洛南高校時代 3000m障害ランナーとして築いた礎と他部活の生徒からも刺激を受けた寮生活
三浦龍司は高校時代の成長で世界を目指す意識が芽生えたと振り返る photo by Murakami Shogo

 高3になると、6月の近畿大会で30年もの間破られずにいた3000m障害の高校記録を一気に5秒以上も更新し、8分39秒49の新記録を打ち立てた。

 当初は「陸上自体は大学生まででひと区切りをつけよう」と考えていたというが、競技レベルが上がるごとに、自然と目線も上がっていき、その考えも変わっていった。そんな三浦が「ひとつ大きな転換期だった」と言うのが、高3で臨んだ初めての日本選手権だった。

「たぶんあそこのなかで、僕が一番ドキドキしていたと思います。大舞台に自分が足を踏み出したっていう感覚があった大会でした」

 三浦は日本選手権の予選で再び高校記録を更新(8分39秒37)し決勝進出を果たすと、決勝でも堂々とした走りを見せて5位に入賞した。

 そんな三浦でも、同じ高校生にどうしても勝てない相手がいた。岡山・倉敷高のケニア人留学生、フィレモン・キプラガット(現・愛三工業)だ。キプラガットは1年目からインターハイで8分21秒30の大会記録で優勝しており、この種目で史上初の3連覇を果たした選手だ。

「あの世代で、あのキプラガットの記録はレベルが違いすぎた。目標にしようとすら思えなかったですね。僕らは8分40秒を切れるかどうかっていうところでヒイヒイ言っているのに、彼は1年生で8分21秒でしたから。

完全に別物と捉えていました」

 三浦は高校時代、キプラガットに圧倒され続けた。高校記録保持者として臨んだ最後のインターハイも30秒近い大差をつけられて2位に終わっている。その1年後、大学生になった三浦はキプラガットについに勝利を収めるのだが......それはまた別の話だ。

 洛南高といえば、長距離のみならず、トラック&フィールドの強豪校でもある。三浦が高校3年生の時にはインターハイで2年ぶり8度目の総合優勝を成し遂げた。もちろん三浦の活躍は、チームの大きな力になった。

【いい思い出しかない寮生活と日常で触れた京都の魅力】

 三浦に高校時代の思い出を聞くと、やっぱり寮生活に関することが多い。

「関西の人って、言葉もきつくて、熱い人が多いイメージだったんですけど、案の定、押された時もありました(笑)。でも、寮生の間では打ち解けるのは結構あっという間でした。みんな仲よくしていましたし、兄弟みたいな感じで、部活とか関係なくお互いを応援し合って、結果が出れば称え合っていました。僕としては居心地が良くて、思い出深いところでした。

 寮生が遊びに行くところといえば京都駅の目の前のイオン。

どこかに出かけるとなると、だいたいがそこに行っていました。映画館もあるので、みんなで映画を観に行ったりしていました。

 思い出深いエピソードとしては、高校3年の時(2019年)にラグビーのワールドカップがあって、みんなで食堂のテレビで熱く応援したことですね。結構夢中になって、夜遅くにもかかわらず、テレビに向かってどデカい声で応援しました。次の日に、しっかりと大きな貼り紙がありました。どうやら近隣から苦情があったようで......。

 寮で過ごした3年間はだいぶ濃くて、公に言えることのほうが少ないですね(笑)。"ザ・男子高校生"みたいな極みですよ(編注・学校は男女共学)。みんなでワイワイやっていました」

 高校記録を打ち立てるなど華々しい活躍を見せた一方で、寮に帰れば普通の高校生に戻ることができたのだろう。

 部活動でもちょっとしたことが思い出として残っている。「めちゃめちゃあるので、選べないですけど...」と前置きした上で、話してくれたのは試合の日のひとコマだ。

「西京極の競技場で試合がある時は、みんなで電車で行くんですけど、帰りは四条河原町に寄り道していました。

で、リンツ(チョコレートの試食)をもらって帰ってくるだけなんですけどね。しかも、制服で、坊主で。競技会とセットで、それも思い出深いものがありますね」

 また、故郷を離れて、観光地の京都で3年間を過ごしながらも、満足に観光することはなかったという。ただ、高校3年の秋に初めて京都の美しさに触れる機会があった。

「ユース大会のある時期に、その試合に関係のない3年生は普通に練習をしていて、嵐山までジョグで行ってみたんです。ちょうど紅葉がものすごくきれいな時期でした。そこで初めて『めっちゃいいところじゃん、京都!』って思いました。3年間、ろくに観光もしたことがなかったので」

 三浦にとって日常のささやかな瞬間もまた、かけがえのない思い出なのだ。

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