Jリーグ懐かしの助っ人外国人選手たち
【第25回】ポンテ
浦和レッズ

 Jリーグ30数年の歩みは、「助っ人外国人」の歴史でもある。ある者はプロフェッショナリズムの伝道者として、ある者はタイトル獲得のキーマンとして、またある者は観衆を魅了するアーティストとして、Jリーグの競技力向上とサッカー文化の浸透に寄与した。

Jリーグの歴史に刻印された外国人選手を、1993年の開幕当時から取材を続けている戸塚啓氏が紹介する。

 第25回はロブソン・ポンテを取り上げる。浦和レッズではギド・ブッフバルトやウーベ・バインのようなワールドカッププレーヤーから、ワシントンやエメルソンといった個人タイトルを獲得した選手まで、クラブの歴史で重要な役割を担った外国人選手が数多い。

 そのなかでも「ロビー」の愛称で親しまれたこのブラジル人アタッカーは、特別な存在と言っていいだろう。彼とともに過ごした6シーズンで、チームはJリーグの頂点に立ち、アジアも制したからだ。

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【Jリーグ】ポンテは浦和レッズ優勝のラストピースだった キャ...の画像はこちら >>
 20世紀から21世紀初頭のサッカー界において、ブラジル人アタッカーは「芸術」の比類なき表現者だった。意外性、創造性、即興性、独創性といったフレーズは、南米のサッカー大国のためにあると言ってもいいぐらいだった。

 そうしたなかから、時に意外な才能も出現する。ロブソン・ポンテはそのひとりだ。アーティストとしての資質を搭載しながら、ハードワーカーの性格も備えていたのである。

 その理由を探ると、彼の経歴に行き当たる。1999-2000シーズンから6シーズンにわたって、ドイツ・ブンデスリーガでプレーしている。

レバークーゼンとヴォルフスブルクで過ごした日々を通して、かの国で「ツヴァイカンプフ」と呼ばれる1対1の重要性や、組織的に連動する意味といったものを学んだのだろう。

【レッズ初のJ1リーグ優勝に貢献】

 攻撃で違いを生み出すだけでなく、チームの一員として守備にも汗を流す。ドイツで培われた献身性があったからこそ、指揮官ブッフバルトは彼を迎え入れ、未知なるJリーグにフィットしていったのだった。

 ちなみに、レバークーゼンでともに過ごしたフランサは、ドイツでプレーしても守備に関心を示さなかった。同じブラジル人でも、サッカーとの向き合い方は人それぞれといったところか。

 ポンテは2005年シーズン途中にレッズへやってきた。ブラジル人ストライカーのエメルソンがカタールのクラブへ移籍したことなどから、クロアチア人のFWトミスラフ・マリッチとともに8月に加入した。

 リーグカップで公式戦デビューを飾り、直後のFC東京戦でJ1リーグにデビューした。2-1の勝利を呼び込む決勝弾を突き刺し、ブッフバルト監督とチームメイト、それにサポーターのハートをいきなり鷲づかみにした。ポンテは16試合出場で8得点を記録し、最終節までリーグ優勝を争うチームを田中マルクス闘莉王らと牽引した。

 2006年は3-5-2システムの2トップやトップ下で起用され、チームに初のJ1リーグ制覇をもたらしている。22試合出場で4ゴールは物足りない数字だったが、優勝を決めた最終節のガンバ大阪戦で大きな仕事をやってのけた。

 0-1で迎えた27分、右サイドから抜け出してゴール左隅へ流し込んだ。

さらに44分、右サイドで宮本恒靖と対峙しながら、わずかなコースを突いてゴール前へクロスを入れる。これをワシントンが右足で蹴り込んだ。

 2点差以内なら、負けても優勝を決められる一戦だった。それでも、ホームの埼玉スタジアムは6万2千人を超える大観衆で埋め尽くされている。ポンテも「最高の雰囲気が私たちを後押ししてくれた。『勝って優勝するんだ』と誰もが思っていた」と話した。レッズは3-2で勝利し、真っ赤な歓喜が爆発したのだった。

 ブラジルの同胞ワシントンは、26ゴールで得点王に輝いた。ワシントンはポンテの存在に触れ、「彼は技術が際立って高く、決定的なチャンスを生み出せる。私たちはお互いを理解して、いい関係を築くことができた」と、その存在価値を明かした。

【2007年にはリーグMVPを受賞】

 翌2007年は、アジアを舞台に輝きを放つ。

 クラブにとって初出場となったAFCチャンピオンズリーグで、グループステージから得点を記録する。アウェーで価値あるゴールを立て続けにゲットした。

セパハン(イラン)とのファイナルでも、敵地での第1戦で貴重なアウェーゴールを叩き出した。JリーグのクラブがACLを制覇するのは、レッズが初めてのことだった。

 J1リーグでは7ゴール12アシストをマークし、GK都築龍太、闘莉王、MF阿部勇樹、MF鈴木啓太とともにベストイレブンに選出された。ポンテはMVPにも輝いている。レッズは最終節の敗戦で連覇を逃したが、リーグ戦でも強烈なインパクトを残したのだった。

 加入4シーズン目の2008年は、16試合出場で1得点に止まった。2007年のJ1リーグ最終節で左ひざを負傷し、長期の離脱を強いられたからだった。

 長期離脱後の選手は、身体のバランスを取り戻すのに苦労する。ケガをした箇所を知らず知らずのうちにかばってしまい、逆足に負担がかかってしまうのだ。大小のケガを繰り返し、トップフォーム取り戻すことができない、というケースもある。

 2008年のポンテは、すでに32歳である。ケガ明けのコンディション回復や維持向上が、難しくなりつつある年齢だった。

 2009年に28試合出場で4得点に終わったポンテは、翌2010年に半年間の契約を結んだ。半年しか契約期間を与えられなかった、というのが現実である。

 シビアな現実を突きつけられ、彼自身も「チームの扱いに失望している」と話したが、2010年シーズンの前半戦で自らの価値を証明する。シーズン終了までのオファーを受けてサインし、最終的に29試合出場で9ゴールをマークした。シーズン終盤の11月には34歳となったが、健在ぶりを示してチームを去ったのだった。

 ポンテが去った2010年以降も、レッズには多くの外国人選手がやってきた。クラブのフロントが連れてきた選手がいて、Jリーグの他クラブから獲得した選手がいる。エジミウソンやマルシオ・リシャルデス、マテウス・サヴィオやズラタンは、ポンテを上回るJ1リーグ出場試合数を記録している。しかし浦和での稼働試合数では、ポンテが今なお歴代最多である。

【今も愛される浦和レッズの功労者】

 レッズは2006年を最後に、J1リーグ制覇から遠ざかっている。

 ポンテとともにJ1リーグ制覇やACL優勝を勝ち取ったチームには、小野伸二長谷部誠、田中達也や永井雄一郎らがいた。攻撃も守備もタレント揃いで、ポンテのほかにも頼りになる外国人ストライカーがいた。

2007年には阿部が移籍してきた。

 何か大きなものをつかむための条件が整っていたチームにとって、ポンテはラストピースだったのかもしれない。キャリアの絶頂期をレッズに捧げたこのブラジル人は、日本のメガクラブで歴代最高の称号を戴(いただ)く助っ人外国人である。

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