ジョルジーニョ ロングインタビュー/第1回(全4回)

 Jリーグ創成期の4年間に鹿島アントラーズでプレーし、その後、2012年には監督として鹿島を指揮した元ブラジル代表のジョルジーニョ。今も日本を愛してやまないレジェンドに、当時の思い出や、ブラジルでの監督人生、そして、日本代表とブラジル代表の今について聞いた。

選手、監督として鹿島アントラーズに在籍したジョルジーニョが古...の画像はこちら >>

――2025年、あなたの古巣である鹿島アントラーズが、9年ぶり9度目のJリーグ優勝を達成しました。

「まずは鹿島のみんな、おめでとう! このタイトルを、とても幸せに思っているよ。特に監督は僕の友達だからね。現役時代、一緒にプレーしたオニキ(鬼木達)だ。彼はすでに川崎フロンターレの監督として、多くのタイトルを獲得していて、鹿島に来てからも、再び勝つための仕事をしたんだ。

 そして一丸となって戦った選手たち、スタッフ、フロント、そしてサポーターは、この優勝のために1年間、どれだけ全力を注いで戦い抜いたことだろう。鹿島の名は日本の頂点に立ち続け、アントラーズファミリーは勝者であり続けている。日本最多のリーグタイトル数を持つクラブの誇りを賭けて戦ったみんなのおかげだ。アリガトウゴザイマシタ!」

――鬼木監督が鹿島でプレーしていたことは、指導者としての仕事によい影響があったと思いますか? フロンターレでは一時期、元鹿島の選手たちが何人も技術スタッフとして仕事をして、結果を出していました。

「現役時代に多くを学ぶことができたのが、成功の秘訣のひとつだと思う。ジーコとエドゥが僕を1995年に鹿島に呼んだのも、それが大きな目的のひとつだった。僕らが日本人選手たちに経験を伝えること。

それは長年、鹿島で継続的に行われてきたことだ。

 歴代の監督たちから学ぶことも多かったはずだ。エドゥ、ジョアン・カルロス、オズワルド・オリヴェイラ、トニーニョ・セレーゾ、ゼ・マリオ......。誰もが勝者だ。そして彼らはいつもピッチ上の問題について、選手が議論に参加するよう配慮していた。

 オニキは鹿島での現役時代、ベンチスタートが多かったから、多分、ベンチに伝わる情報や、監督とスタッフの会話、交代する選手への指示の方法なども貪欲に吸収したはずだ。その彼の姿勢も、学びを豊かにしたのだと思うよ。

【「日本人選手には謙虚に質問する姿勢があった」】

――あなたが鹿島に入団したのは1995年、ブラジル代表としてW杯で優勝した翌年であり、バイエルン・ミュンヘンでも活躍していたため、日本では驚きと歓喜を持って迎えられました。移籍を決意した理由を教えてもらえますか?

「何よりも当時、鹿島の監督を務めていたエドゥの言葉に魅力を感じたんだ。『君には選手としてプレーするだけではなく、戦術面をオーガナイズする手伝いをしてほしい。日本人選手たちはまだ経験が浅く、ポジショニングやタイミングなど、多くの面でアドバイスを必要としている。それをピッチ上で伝えてほしい』と言われてね。

 それは僕にとって新たな挑戦だったけど、ドイツではサイドバックとしてだけでなく、ボランチとしてもプレーしていたから、手助けできると考えた。

すごくモチベーションが高まったよ」

――実際に鹿島に行って、プレー以外ではどんな風にチームを手助けしていましたか?

「日本人選手たちは急ピッチで戦術やポジショニングを理解していったよ。なぜか。彼らには謙虚に質問する姿勢があったからだ。

 例えば、SBのナラハシ(名良橋晃)はいつも僕に聞きに来ていた。『オーバーラップのタイミングは?』、『中に持ち込む時に注意すべきことは?』などと。僕らは『ボールをキープすべき時か、パスを出すべき時か、シュートを打つべき時か、正しい判断をするためには......』とか、そういう話をしていたんだ。クロスの練習も一緒に徹底的にやって、彼はクロスの名手になったよ。完璧なカーブをかけてね。彼の努力の賜物だ」

――大変だと感じたことは?

「もちろん、時間と忍耐は必要だ。たとえば、練習のあとに話をしたり、個々の技術の練習を一緒にやったりするのもひとつ。でも、それまで僕がプレーしていたクラブでは、全員が戦術や自分の役割を理解していたし、僕もそのなかで良いプレーをするのが仕事だったんだ。それが、鹿島ではみんなが僕の経験から何かを得ようとしてくれた。

大きなやり甲斐があったよ。

 それに、僕も多くを学んだ。たとえば、日本人はとても規律正しく従順だけど、同時に彼らも理解されたいと思っていることとか、頭ごなしに言うよりも、愛情を持って抱きしめながら接するほうがいいこと、とか。"サッカーをするのは人間であり、人は一人ひとり違うんだ"という当たり前のことを、あの頃、指導者的な目線で理解し始めたのが、監督としての僕の糧になっている」

【リーグ優勝の記憶】

――1996年、鹿島は横浜フリューゲルス、名古屋グランパスと優勝を争い、Jリーグで初優勝しました。

「あの年は、途中でレオナルドが去ったとは言え、マジーニョが好調だったし、日本人もクロサキ(黒崎久志)、ハセガワ(長谷川祥之)、僕の中盤の相棒だったホンダ(本田泰人)、すばらしい両SBのソウマ(相馬直樹)とナラハシ、アキタ(秋田豊)、オクノ(奥野僚右)らがいた。ものすごくクオリティーの高いチームだったよ。

 僕らはホームでの第29節名古屋グランパス戦に4-2で勝ち、実質的に優勝を決めたんだ。次の最終節でヴェルディ川崎に16点差以上の大差で負けない限り、優勝できたのだから。スタジアム、そして鹿嶋の街を包むあの歓喜......。鹿島の悲願達成は、僕の人生に刻まれたよ」

――2度目のJリーグ優勝を遂げた1998年は、シーズン途中にジョアン・カルロス監督が去り、関塚隆さんが代行監督を務め、ゼ・マリオが正式監督として招聘された後も苦しい時期を過ごしました。あの困難を、チームはどう乗り越えたんですか?

「ゼ・マリオの就任当初、チームに好不調の波があったのは当然だ。日本のサッカーを理解し、選手を知り、適材適所に配置してトレーニングを積ませるまで、ある程度の時間がかかるものだから。

 でも、僕らは常に話し合いをした。

選手同士で話し、それをゼ・マリオに伝え、試合中に起きた問題を共有した。そして練習方法から変えて、チームの歯車が合った時、僕らはあの13戦不敗を達成した。そうやって勝ち点を積み重ね、優勝に到達したんだ」

――ほかにも心に刻まれた試合や場面はありますか?

「人生で初めて、試合に負けた時に、あの場にいられて良かったと思えた一戦がある。1997年のファーストステージで優勝する前の第14節、ホームでの清水エスパルス戦だ。僕らは思うようにプレーできなかった。それでもサポーターは声援を送り続け、試合後も拍手喝采してくれたんだ。

 サポーターは僕らが闘志を持ってプレーしたことを理解してくれた。そして、共に戦ってくれたんだ。だから感動してチームメイトたちに言ったよ。『これが鹿島だ!』と」

【「当時はサポーターがしょっちゅう家に来ていた」】

――ジーコはあなたの少年時代からのアイドルであり、フラメンゴで一緒にプレーもした仲間でもあります。あなたから見た、鹿島でのジーコはどんな存在ですか?

「鹿島の監督はみんな、試合前のミーティングを、当時ディレクターだったジーコの話で締めくくっていた。すると、選手は全員、彼を食い入るように見つめていたものだ。

そして試合中には、さまざまな場面で彼の言葉を思い出すことになる。『ジーコが話していたのはこれだ。そしてこういう時はこうすべきだと言っていた』とね。

 ジーコがもたらしたものは、真剣さ、献身、情熱。そして、サッカーをプレーする喜びだ。また、人としてどうあるべきか。自分が何をするか、どうやってするか、自分がやることをどれほど愛するか。それが"ジーコ・スピリット"だよ。鹿島はその伝統を維持している」

――サポーターとの思い出は?

「日々、愛情を与えてくれたよ。当時はサポーターがしょっちゅう家に来ていたんだ。『渡したいものがあるんだけど』と遠慮がちにプレゼントを持ってね(笑)。そのまま一緒にコーヒーを飲んだこともあれば、それができない時もあった。

その時は歯痒かったけどね。みんなを友達のように迎え入れたかったけど、練習や試合で忙しい時もあったから。でも、身近に親しみを感じられたのは、すごく良い思い出だよ」

――サポーターが歌ったジョルジーニョのチャントを、今も覚えていますか?

「♪ジョールジーニョ、オー。ジョールジーニョ、オー。ジョールジーニョ、オーオーオー、オーオオオー♪ こうして歌うだけで泣けてしまうよ。獲得できた数々のタイトルは大きな誇りだ。ただもっと誇りに思うことは、サポーターからあれほど愛されたことだ。鹿嶋は小さな街で、街全体がサッカーで呼吸している。ファンのみんながアントラーズと共に生きているんだ。

 だから、僕らはすべてをピッチに持ち込んだ。勝利への意欲、闘志、友情、サポーターの思いを。『アントラーズ・ファミリー』の一員だったあの日々は、僕の記憶から決して消えることはない」

(つづく)

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