日本ボクシング世界王者列伝:セレス小林 長い下積み期間を経て...の画像はこちら >>

井上尚弥・中谷潤人へとつながる日本リングのDNAたち18:セレス小林

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 ボクシングは才能だけがすべてを支配するスポーツと言われる。ただし、その才とは決して一様ではない。

生まれながらの『速さ』や『強打』、あるいは、さまざまな戦いの図式を常に先取りできる感性のみで、世界チャンピオンが生まれ出ずるはずもない。能力の在処を知り、師弟の絆を信じ、自分ができることは何なのかを捜し出すこと、さらにあらん限りの執念を燃やせる者こそが、多くの英材を追い抜き、ほんのひとにぎりの栄光を浴びることができる。

 セレス小林(国際)。日本人として21世紀最初の世界タイトル獲得者になったこのサウスポーは、少なくとも傍目からは、典型的な努力の人のように見えた。

(文中敬称略)

【少しずつため込んでいった実力】

 失礼ながら、セレス小林というサウスポーのキャリア前半は、ほとんど記憶に残っていない。それも、むべなきものかな。

 1992年春、4回戦でのデビュー戦で敗れ、1年後に挑戦した"チャンピオンへの登竜門"新人王戦も準決勝敗退。さらに1年後の新人王戦再挑戦では決勝に進出したものの、引き分け敗者扱いだった。その後2年間も下積み生活を続けることになる。

 堅実な成績を残していても、特別なものを感じることはなかった。プロ6年を経て、ようやく日本フライ級タイトルに挑んだが、不運な負傷引き分け。2度目の挑戦も僅差判定負けで念願のベルトへの道はなお遠かった。

 目立たなかった理由のもうひとつには、すぐ隣接する場所に光芒に包まれた才気があった。

同じ国際ジムに所属し、同じく元日本バンタム級チャンピオンの三浦利美(リングネームはクラッシャー三浦)の指導を受けるトラッシュ中沼(のちの日本チャンピオン)が台頭していた。繊細なペースメイクとダイナミックな攻撃がほどよく配合された、燦(きら)めくボクサーパンチャーだった。自ら"トラッシュ(くず)"と名づける生きざまも、プロとしては魅力になった。しっかりと経験を積み、白星を重ねた小林だったが、派手な身内に比べれば、どうしても地味に見えたのも仕方なかったのだろう。

 小林がその存在感を一気に増してくるのは、3度目の挑戦でやっと日本チャンピオンになってからだった。日本在住のフィリピン人で、その手練れの技巧によって6度の防衛を重ねていたスズキ・カバト(新日本大阪)への3度目の挑戦に、2−0判定勝ちでやっと勝ちきった。

 そして1999年の初防衛戦で対戦したのが、アマチュアエリートから鳴り物入りでプロに転じてきた石原英康(松田)だった。デビュー戦から、まだ日本チャンピオンだったカバトと6回戦を戦い、判定勝ち。日本最短となる3戦目での日本王座獲得を目指し、本拠・名古屋から東京の後楽園ホールにやってきた。小林の闘志はなみなみならぬものだったに違いない。

 同じサウスポースタイルの石原に対し、タイムリーな左オーバーハンドブローを決めて棒立ちにさせたのは試合開始からわずか20秒後。そうして気負いを誘い出した小林は、対戦者の強打にひるむ気配もなく、戦いをコントロールしていく。

迎えた7ラウンド、左ショートで棒立ちになった挑戦者が必死に組みついて後続の攻めを断ち切ろうとしたところに、ショートパンチを次々に迎射。最後は左アッパーのトリプルで仕留めた。

 この男の真価をようやく理解できるようになったのはこのころだ。スピードはさしたるほどではない。優雅なステップもおぼつかない。むろん、豪奢な一撃強打も......。けれど、対戦者との距離感が抜群だった。ブロックも堅固だった。華奢な体をわずかに傾(かし)げたり、あるいはヒザを折ってのボディワーク、ステップというより、わずかな足の動きでかわす技術も高い。そして何より、相手の体勢を見極めると、すかさず正確なパンチを飛ばした。ボディ、顔面、打てる場所を即座に探し当て、多彩な角度から休むことなく連打を浴びせかける。ひとたび波に乗ると、巧みに攻守を使い分けて決してペースを手放したりはしない。

 石原戦の勝利から1年、世界へとこぎ出してからは、小林は再び進化を遂げる。さらなる高い壁に挑むために、地獄から業火を呼び寄せたような、激しい闘志をまき散らしながら戦えるようになった。その姿はまさに拳神のごとくだった。

【激闘の名人のように戦い抜いた】

 2000年8月、WBC世界フライ級チャンピオンのマルコム・ツニャカオ(フィリピン)に挑んだ。わずかプロ12戦目(11戦全勝7KO)でこの日のリング立ったツニャカオは、アジア一のボクシングの伝統を持つフィリピンでも史上有数とされる才能の持ち主とされた。同じサウスポーのフィリピン人に対し、小林は真っ向から立ち向かう。しかし、決定打を得られず、判定は引き分け。小林の試練の道は続くことになる。

 チャンスを求めてスーパーフライ級に階級を上げ、レオ・ガメス(ベネズエラ)の持つWBAタイトルに挑んだのは2001年3月だった。このとき、すでに37歳になっていたガメスだが、4階級制覇を達成した豪腕の持ち主だった。小林は顔面と腹に着実に巧打を打ち分けていく。とくに効果を上げたのはボディブローで、南米のベテランははっきりと動きを失っていった。

10ラウンド、的確打を集めたあと、あまりに鮮やかな左ストレートのカウンター。ばったりと前のめりに倒れたガメスは立ち上がっても、その足もとは定まらないまま彷徨(さまよ)った。レフェリーはカウントを中止してストップをかける。小林の大願が成就した瞬間だった。

 小林が世界チャンピオンの座にあったのは363日。そして、この男の戦いがファンの間に長く記憶されることになったのは、残念ながら勝利という形で終わった戦いではない。そのキャリアのラストとなった2度目の防衛戦は、最強の挑戦者を相手に「壮絶」という言葉が軽々しく聞こえるほどの戦いだった。

 対戦者はアレクサンデル・ムニョス(ベネズエラ)といった。戦績は21戦オールKO勝ち。その数字と前評判だけで震え上がったものだが、公開練習を見てからはなおさらだった。しなやかな体躯から打ち込むパンチには抜き身の日本刀のギラつきに、振りかざした蛮刀の鈍い光もまた同居して見えた。

「小林はただじゃ済まないんじゃないか」。

あの時、怯えきった自分自身のことをよく憶えている。

 2002年3月9日、日本武道館。小林本人には申し訳ないが、私はその無事ばかりを祈っていたように思う。

 小林はまさしく激戦の帝王のように戦った。2ラウンドにダウンを奪われながら、なおも勇敢に、だった。ボディブローで何度もムニョスを窮地に追い込む。5ラウンド以降は毎ラウンド、ダウンを喫する苦闘にもかかわらず、倒されるたびに立ち上がっては反撃に打って出る。二番手集団からスタートし、アイデアを尽くし、努力を重ねてつかんだ世界の頂点を簡単に投げ出すわけにはいかない。

 どこまでも勝負にしがみつくのも、チャンピオンの責任。そんなメッセージがリングの中には、無限の数までこぼれていた。だが、限界はある。8ラウンド、小林はついに力尽きる。

 激しく傷ついたのは明らかだったが、小林は用意された担架を断り、自分の足で歩いて帰った。それも、世界一の男としての矜持だった。

●Profile
せれす・こばやし/1973年2月27日生まれ、茨城県岩井市(現坂東市)出身。本名は小林昭司。1992年にプロデビュー。日本フライ級王座に2度挑戦するも失敗、1998年にスズキ・カバト(新日本大阪)との3度目の対決に勝ち、日本王者に。この王座を4度防衛後、世界挑戦に挑む。世界初挑戦は引き分けに終わったが、2001年、スーパーフライ級に上げてWBA王者レオ・ガメス(ベネズエラ)に挑戦し、鮮やかなTKO勝ちでついに宿願を果たした。2度目の防衛に失敗して引退。その後、千葉県柏市にセレス・ボクシングジムを設立。岩佐亮佑をIBF世界スーパーバンタム級王者に育てている。現在、日本プロボクシング協会の会長でもある。戦績は32戦24勝(14KO)5敗3分。

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