世界に魔法をかけたフットボール・ヒーローズ
【第47回】アレッサンドロ・デル・ピエロ(イタリア)

 サッカーシーンには突如として、たったひとつのプレーでファンの心を鷲掴みにする選手が現れる。選ばれし者にしかできない「魔法をかけた」瞬間だ。

世界を魅了した古今東西のフットボール・ヒーローたちを、『ワールドサッカーダイジェスト』初代編集長の粕谷秀樹氏が紹介する。

 第47回はイタリアの名門ユベントスに19シーズン在籍し、クラブの象徴として人気を博したアレッサンドロ・デル・ピエロを紹介したい。ユベントスが八百長事件でセリエB降格となっても、彼はクラブから離れなかった。それが、今でもユベンティーノに愛されている理由だ。

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【欧州サッカー】デル・ピエロは降格するユベントスを見捨てなか...の画像はこちら >>
 イタリア代表が、苦しんでいる。

 FIFAワールドカップ2026北中米大会のヨーロッパ予選では、アーリング・ハーランドとマルティン・ウーデゴールを擁するノルウェーに屈し、3月開催予定のプレーオフに出場権をかけることになった。

 4度の世界制覇を誇るサッカー強国でありながら、2018年ロシア大会、2022年カタール大会もワールドカップ予選を突破していない。3大会連続で失態を演じると、イメージダウンは甚だしい。

 かつて、イタリアは強かった。伝統の守備力はもちろん、流麗なテクニックでゲームをつかさどる選手たちが世界で人気を博した。ジャンニ・リベラ、ジャンカルロ・アントニョーニ、ロベルト・バッジョ、フランチェスコ・トッティ──。

 アレッサンドロ・デル・ピエロも、そのひとりである。

 1992年3月にパドヴァでプロデビューした当時、多くのメディアが17歳のデル・ピエロの「話し方」に苦言を呈していた。

「幼さが残りすぎている」

 日本人の筆者には理解しがたい指摘だが、どうやら「スター候補生なのだから、男らしくあれ」とでも言いたかったようだ。現代社会ならハラスメントに該当するだろう。

 ただ、ピッチでの彼は堂々と振る舞っていた。十分な経験を積んだ猛者を相手に、華麗なテクニックを披露する。身体ができていないため、激しすぎるチャージに倒されることも多々あったとはいえ、パスセンスと得点感覚は同世代の誰よりも秀でていた。

【ロベルト・バッジョの後継者】

 当然ながら、ビッグクラブがその存在を見逃すはずはない。1993年、セリエBで輝きを放った青年はパドヴァから巣立ち、誰もが憧れるユベントスへと移籍する。

 当時カルチョ・イタリアーノ屈指の名門は、ロベルト・バッジョの後継者を探していた。芸術的なプレーで多くの人を魅了した唯一無二のスーパースターも、度重なる故障には抗(あらが)えなかった。全盛期の彼を知る者にとっては、耐えがたいパフォーマンスである。

 世代交代を訴えるメディアも少なくなかった。1994年3月のパルマ戦でデル・ピエロがハットトリックを決めると、「イタリア代表の将来を担う男」「新時代のエース」と19歳の若者を称賛した。

 続く1994-95シーズンは世代交代が加速する。1994年ワールドカップ・アメリカ大会の疲労を引きずったバッジョはユベントスの中軸になれず、デル・ピエロが攻撃を牽引する。そして1994年12月のフィオレンティーナ戦で、のちに語り継がれる衝撃のゴールが生まれた。

 センターライン近くから飛んできたロングボールに対して誰よりも早く反応し、ふたりのディフェンダーに囲まれながら背中越しのボールをダイレクトボレー。右足から放たれた一撃は、ユベンティーノの夢と希望を乗せてゴールに吸い込まれていった。

 背後から来たボールは扱い方が難しい。落下地点が推測しづらいため、真下を叩いて上に外したり、空振りしたりするケースが多々ある。しかし、デル・ピエロは瞬時にしてミートポイントを捉えた。

 この一撃で、ユベントスの勢力分布図に大きな変化が生じる。エースの座にはデル・ピエロが収まり、シーズン終了後にバッジョはミランへと去っていった。時の流れとはいえ、世代交代は残酷ですらある。

 しかし、ユベントスに19シーズンも所属するとは想像を超えていた。

705試合出場・290得点はともにクラブ最多記録。セリエAを6回、チャンピオンズリーグ、トヨタカップ(現クラブワールドカップ)、コッパ・イタリアも栄光に浴している。デル・ピエロこそが「クラブの象徴」だった。

【インザーギとの最強2トップ】

 ユベントスでの輝かしい活躍ぶりに、デル・ピエロに関する言葉も次々と生まれた。

 ペナルティエリアの左斜め45度のハーフスペースから、右足でファーポストを巻くようにしてゴールを決めるのを得意とし、そのポジションは「デル・ピエロ・ゾーン」と言われた。厳しいマークにあいながら美しい弧を描き、GKの手が届かないところ運ばれる一撃は、高等技術の成せる業(わざ)だった。

 フィリッポ・インザーギ(愛称ピッポ)との2トップは、メディアによって「デル・ピッポ」と名づけられ、各国で活躍するディフェンダーたちの厄介事になった。両者が織りなす阿吽(あうん)の呼吸は、マーカーの二手、三手を見透かしたかのように翻弄する様は狡猾だった。

 2001-02シーズンからの5年間でセリエAの優勝4回。デル・ピエロとユベントスは我が世の春を謳歌する。

 だが、順風満帆だったキャリアは、突如として影を宿した。2006年5月に発覚した審判買収スキャンダル──いわゆる「カルチョポリ」である。不正の主犯格とされたユベントスは2004-05シーズンから2年間のリーグタイトルを剥奪されたうえ、セリエB降格という厳しい処分を受けることになった。

 ファビオ・カンナヴァーロはレアル・マドリードに、ズラタン・イブラヒモヴィッチはインテルに、リリアン・テュラムがバルセロナに新天地を求めたのは当然だ。セリエBでモチベーションを維持するのは難しい。

 だが、デル・ピエロはキャプテンとして残留を公言。ジャンルイジ・ブッフォンとパベル・ネドベドもそれに続いた。勇気のある決断と言えるだろう。ましてやデル・ピエロは、マンチェスター・ユナイテッドのアレックス・ファーガソン監督からオファーが届いていたのだ。

「ユベントスに厳しい処分が下された時、直接デル・ピエロを口説きに行ったんだ。セリエBじゃ戦いたくないだろうからね。ところが彼は、『お気持ちには感謝しますが、ユベントスを離れるわけにはいかないんです。申し訳ありません』と断ってきた。これがクラブに対する忠誠なんだ。デル・ピエロという人間は尊敬に値する」

 近年になって、サー・アレックスはデル・ピエロとの交渉内容を明らかにした。

ユベントスはデル・ピエロの「漢気(おとこぎ)」に救われたといって差し支えない。

【ピッチに作品を描いた芸術家】

 ケガや体調不良により、イタリア代表では活躍できなかった。2006年ワールドカップ・ドイツ大会ではスーパーサブとして6大会ぶりの優勝に貢献したが、レギュラーではなかったのだから喜び半減だろう。

 しかし、身長173cmと小兵の部類に入る男が、大型化が進むフットボールの世界で異彩を放ったのは、高いスキルと豊かな創造性の賜物だ。

 類(たぐい)まれなキープ力でマーカーを引きつけ、細かいボールタッチで狭いスペースをいとわず、相手DF陣の虚をつくパスで数多くのチャンスを創出した。精度の高いプレースキックもストロングポイントのひとつである。

 2003年に他界したユベントスのジャンニ・アニエッリ会長は、デル・ピエロを「ピントゥリッキオ」に喩えている。ルネサンス時代に名を馳せた画家の才気に重ねたのだ。

 デル・ピエロはピッチに美しい作品を描き続けた。彼のフットボールも、まさしく芸術だった。

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