世界に魔法をかけたフットボール・ヒーローズ
【第49回】デヤン・サビチェビッチ(モンテネグロ)
サッカーシーンには突如として、たったひとつのプレーでファンの心を鷲掴みにする選手が現れる。選ばれし者にしかできない「魔法をかけた」瞬間だ。
第49回は「悪魔の左足」を武器に1990年代のミランで輝きを放ったデヤン・サビチェビッチを紹介する。卓越したボールコントロールと予測不可能なプレーぶりから、イタリアメディアは「イル・ジェニオ(天才)」と名づけた。激動のユーゴスラビアを生き抜いた男は今、モンテネグロのサッカー協会会長として現役時代以上の切れ味で未来を切り開いている。
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一説によると、人類は紀元前から愚かな戦いを繰り返しているという。世界大戦は2度にも及び、21世紀になってもロシアがウクライナに侵攻し、アメリカは軍事作戦でベネズエラのニコラス・マドゥロ大統領を拘束した。中東、東アジアも常に火薬の臭いが漂っている。1992年、サッカーのユーゴスラビア代表は内戦の影響により(最終的にクロアチア、セルビア、コソボ、スロベニア、北マケドニア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴビナの7カ国に分裂)、インターナショナルマッチから追放された。政情不安のペナルティがなぜスポーツに科されるのか。政治とは別物のはずだが、なぜかもれなくついてくる。
当時のユーゴスラビア代表はイビチャ・オシム監督に率いられ、ドラガン・ストイコビッチ、ダルコ・パンチェフ、ダボル・シュケルなどを擁する魅力的なチームだった。
もし戦争が起きていなければ、1992年のヨーロッパ選手権を制しても不思議でない実力を持っていた。
ペレ、ヨハン・クライフ、ギュンター・ネッツァーといった偉大なる先達も、口を揃えてユーゴスラビアの欠場を残念がっていた。
【エレガントかつパワフルなドリブル】
そのユーゴスラビア代表において、デヤン・サビチェビッチも類(たぐい)まれなセンスを高く評価されていたひとりである。
守備意識が高くなかったことと、好不調の波が激しかったことが災いし、定位置を確保できなかった時期もある。「エレガントなプレーヤーはひとりで十分」というオシム監督の方針ゆえに、ユーゴスラビア代表でストイコビッチとの共存は多くなかった。
ただ、サビチェビッチのドリブルは圧巻だった。足の裏を巧みに使いながら前進し、なおかつマーカーとの間合いも絶妙だ。飛び込めばすかされ、待っていると前に出られる。ボールを股に通される。
また、体幹がすぐれていたのだろう。ちょっとやそっとのチャージではバランスを崩さず、そのまま驚異的なスピードでゴールに向かっていく。あるいは理解不能な角度に切り返したり、突然ストップしたり......。エレガントかつパワフルなドリブラーは、当時、いや、近代フットボールでも希少価値だ。
ちなみにミランでサビチェビッチを指導したファビオ・カペッロは、稀代の名手を次のように評している。
「守備面はかなり緩かったが、ドリブルの技術とゲーム展開を瞬時に読む力には舌を巻いた。ともに戦った選手のなかからベストイレブンを選ぶなら、4-3-3の左ウイングにはサビチェビッチを起用する」
サビチェビッチが東欧サッカーを代表する名門レッドスター・ベオグラードに移籍したのは22歳。そこでストイコビッチとともに華やかなプレーで観客を魅了し、25歳の時に名将カペッロ率いるミランからオファーを受け、ユーゴスラビアを離れてイタリアへと旅立つ。
セリエA初年度の1992-93シーズンは、外国人枠の問題もあって残念ながら真価を発揮できなかった。しかし、ルート・フリットがサンプドリアに、フランク・ライカールトがアヤックスに去った1993-94シーズンから、左ウイングとして確固たる地位を築いていく。
【CL決勝で披露した究極の一撃】
11人で守るというカペッロの戦略を理解するまでに時間を要した印象はあるが、そのハンデを補って余りある技術で攻撃を支えた。オランダ人選手の離脱で攻撃力低下が危惧されていたミランにあって、前シーズン13ゴールを挙げたジャン=ピエール・パパンと芸術的なプレーでリズムを創ったサビチェビッチは、わずか15失点の守備陣とともにリーグ3連覇の立役者といって差し支えない。
そして、1993-94シーズン最大の見せ場がやってきた。バルセロナとのチャンピオンズリーグ決勝である。
前半を2-0で終えたミランは余裕を持って後半を迎え、47分にチャンスが訪れる。バルセロナ自陣の左サイドでミゲル・アンヘル・ナダルがボールの処理にもたつくのを見るや、サビチェビッチはすぐさま足を伸ばしてボール奪取。すると、ペナルティエリア外の角度のないポジションから、何のためらいもなく左足を振り抜いた。
計算し尽くされたような弧を描いたボールは、GKアンドニ・スビサレッタの頭上を越えて、美しくサイドネットへと吸い込まれていく。瞬時の判断と高等技術が生んだ、究極の一撃だった。
その後、ミランはマルセル・デサイーもゴールを決め、4-0の圧勝を収めている。フランコ・バレージとアレッサンドロ・コスタクルタが出場停止、34歳を迎えたマウロ・タソッティの衰えなど、イタリア王者は守備陣に少なからぬ不安材料を抱えていた。それでも強敵バルセロナを難なく退けたのは、サビチェビッチをはじめとする攻撃側の奮戦といっていいだろう。
「完全にコントロールされた。特にサビチェビッチ......。一度も止められなかったからな」
滅多に人を褒めない敵将クライフも脱帽していた。
左ウイングから2トップの一角にポジションを移した1994-95シーズンはリーグ4位に終わったが、左ウイングに戻った1995-96シーズンは覇権奪還に貢献。ユベントスから移籍してきたロベルト・バッジョに「10番はサビチェビッチのもの」と言わしめ、繊細なボールタッチと流麗なドリブルでミラニスタの喝采を浴びた。
【もしユーゴの悲劇がなかったら...】
この1995-96シーズンを最後にカペッロがレアル・マドリードに新天地を求め、ミランはひとつのサイクルが終焉を迎えた。32歳になったサビチェビッチには肉体的な衰えが忍び寄り、1997-98シーズン終了後にイタリアに別れを告げている。
セリエAにおける実働期間は6年にすぎない。それでも、サビチェビッチのプレーは人々の記憶に深く、深く刻み込まれている。ユーゴスラビアの不幸な歴史が心を揺さぶるのか、シルヴィオ・ベルルスコーニ氏(元ミラン会長)が「天才」と絶賛した高等テクニックを思い出すたび、今も鳥肌が立つ。
それにしても、最強を誇った当時のユーゴスラビア代表を襲った悲劇は腹立たしい。彼らはヨーロッパ王者、世界チャンピオンにふさわしい実力を有し、サビチェビッチはバロンドールに輝いて当然の「とびっきりの逸材」だった。

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