Jリーグ懐かしの助っ人外国人選手たち
【第30回】リトバルスキー
(ジェフユナイテッド市原、ブランメル仙台)

 Jリーグ30数年の歩みは、「助っ人外国人」の歴史でもある。ある者はプロフェッショナリズムの伝道者として、ある者はタイトル獲得のキーマンとして、またある者は観衆を魅了するアーティストとして、Jリーグの競技力向上とサッカー文化の浸透に寄与した。

Jリーグの歴史に刻印された外国人選手を、1993年の開幕当時から取材を続けている戸塚啓氏が紹介する。

 第30回はピエール・リトバルスキーを取り上げる。2026年に17年ぶりのJ1に立つジェフユナイテッド市原・千葉の歴史で、このドイツ人MFは重要な役割を果たしている。実働期間は決して長くないが、プロとしてのあるべき姿を日本人選手に啓蒙していったのである。

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 1993年のJリーグ開幕は、社会現象を巻き起こした。

 当時の雑誌をめくると、「Jリーグ説教外人(原文ママ)」なる奇妙なワードに出会う。鹿島アントラーズのジーコ、ジェフユナイテッド市原のリトバルスキーが、ピッチ上で日本人を叱責する姿が若者の共感を得ている、というのだ。「夢や目標があるから、彼らは他者に真剣に怒る。物わかりのいい日本の大人とは違う」とのことだった。

 果たして本当にそうだったのかはともかく、「リティ」ことピエール・リトバルスキーが若手選手を叱責したのは事実である。チームに合流してすぐに、若手選手へこんな言葉を投げかけた。

「このチームにはまだアマチュアがいる。

プロになれない選手は去れ」

 チームメイトに厳しい態度で接したのは、それがクラブとの約束だったからである。同時に、彼自身の流儀でもあった。

「私は単に選手としてだけでなく、チームメイトの才能を引き出し、若い選手の模範となることを求められていました。同時に、私はいつも勝利に飢えています。どんな試合でも必ず勝たなければならない。そして、勝つためには自分を律しなければいけないし、チームメイトにも厳しく接する必要があります」

【それがプロサッカー選手の仕事】

 来日は1993年5月10日だった。2日前の8日までブンデスリーガに出場し、16日の開幕節へ間に合わせるためにやってきた。

 翌日に外国人登録を済ませ、そのまま練習場へ足を運んだ。チーム関係者は別メニューでの調整を勧めたが、リティは首を横に振る。

「同じメニューでいい。体調は問題ないし、私はプロだから」

 16日の開幕節では、背番号10を背負ってフル出場した。中2日で行なわれた翌節のヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)戦で、直接FKを決めている。

 リティのゴールで先制した直後、市原は同点に追いつかれた。

その瞬間、リティは手のひらを何度も押し上げた。ヘッドダウンするな、顔を上げろ、という意思表示だ。プロフェッショナルとしてのプライドを示したシーンでもある。

「誰もが能力を持っています。けれど、持っている力をすべて発揮できない選手もいます。それはなぜか。自信がないからです。自信を持つ勇気に欠けているから、力を出しきれないのです」

 4月に33歳となっていた。スポーツ医学が成熟していなかった当時は、今よりも年齢が重みを持っていたはずである。

 しかも、草創期のJリーグは週2回の連戦で、同点なら延長戦あり、それでも決着がつかなければPK戦ありというレギュレーションだった。ピッチ外の熱狂とは対照的に、選手たちは絶えず疲労を溜めていたが、リティは全36試合のうち35試合に出場している。

「ピッチに立ってプレーをすることに、私はプライドを持っています。

それがプロサッカー選手の仕事ですから」

 サッカーという仕事と向き合う時間は、「何物にも代えがたい楽しい時間」と話した。細かなステップでスルスルと相手をかわしていくドリブルは、「僕がサッカーを楽しむ最高の手段のひとつ」と笑った。

「もちろん、自分が楽しければいい、ということではありません。試合を見に来てくれた観客が、スタジアムで過ごした90分間を堪能したと思えるものでなければならない。そうなるとやはり、チームが勝つことが大事になってきます。どんなにスペクタクルな試合をしても、負けてしまったら喜びは沸き上がらないですよ」

【チャレンジとミスはコインの表と裏】

 ここでまた、話のテーマは「自信を持つことの重要性」へ向かっていく。リティの言葉は熱を帯びていた。

「自信を持つと、チャンスは増えるものです。なぜって、チャレンジのないプレーをしているだけでは、サッカーの局面は何も変わりませんから。

 チャンスが増えれば、幸運に恵まれることもある。自信を持ってプレーすることと、ミスをするリスクは、コインの表と裏のような関係です。どちらにもなりうるのなら、チャレンジをしたほうがいいでしょう、というのが僕の考えなのです」

 来日して数カ月後の1993年夏に、リティは「Jリーグはやがてワールドカップでも十分通用するレベルに達して、日本代表は世界で戦えるようになると思う」と話した。

その後も彼は、日本代表の成長を確信し、また、楽しみにしていた。

 2002年の日韓ワールドカップの前には、日本代表の試合があったポーランドで1時間以上も話した。彼の話す英語と日本語には、いつだってサッカーへの情熱と日本へのリスペクトが込められていた。少しばかり耳に痛い発言も、日本サッカーの可能性を信じるからこそのものだった。

「私がJリーグでプレーしていた当時、多くの日本人選手はミスを恐れているように見えました。けれど、Jリーグで外国人選手とともにプレーし、対戦していくことで、自分にもできるという自信、チャレンジする勇気が身についていったのだと思う。ヨーロッパでプレーする選手が増えたことも、日本サッカーの進化のスピードを上げている」

 リティやジーコらが礎(いしずえ)を築いたJリーグは、2026年に34年目のシーズンを迎えた。日本代表は8大会連続となるワールドカップに挑む。日本サッカーの現在地とここから先の課題を、久しぶりにリティに聞いてみたいものである。

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