【MLB日本人選手列伝】村上雅則 1960年代の強豪チームで...の画像はこちら >>

MLBのサムライたち~大谷翔平につながる道
連載23:村上雅則

届かぬ世界と思われていたメジャーリーグに飛び込み、既成概念を打ち破ってきたサムライたち。果敢なチャレンジの軌跡は今もなお、脈々と受け継がれている。

MLBの歴史に確かな足跡を残した日本人メジャーリーガーを綴る今連載。第23回は、新人研修的な球団派遣から史上初めてメジャーリーグでプレーすることになった"マッシー"村上雅則を紹介する。

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【マイナーで好投、コールアップでメジャーデビュー】

 野茂英雄より昔、日本人メジャーリーガーがいた。

「マッシー」と呼ばれた村上雅則である。

 いまではポスティング、フリーエージェントなど、アメリカへの移籍制度が整備されているが、1964年、村上は南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)から、「球団派遣」という形でアメリカへ渡った。初めて東京でオリンピックが行なわれた年、そして村上はまだ20歳だった。

 村上は南海のチームメイトふたりとともに派遣されたが、行き先はサンフランシスコ・ジャイアンツ傘下のマイナーリーグ、シングルAのフレズノだった。

 1964年4月27日、村上はマイナーリーグで初登板。5回を投げ、その時点まで相手打線をノーヒット・ノーランに抑え、勝利投手となった。そのシーズン、シングルAのフレズノで49試合に登板し11勝、防御率1.78の好成績を挙げ、カリフォルニア・リーグの新人王にも選ばれた。

 マイナーリーグ時代のことを、"マッシー"はこう振り返っている。

「そりゃ、嫌なこともありましたよ。当時、アメリカでは公民権法が成立してばかりで、人種差別もありました。

ロッカールームで、ずいぶんとからかわれたものです。でも、結果を残せていたし、トータルとしては楽しかったな」

 そして1964年9月1日、メジャーリーグへ昇格の機会を得る。9月からはベンチ入りのメンバーが拡大され、40人がダグアウトに入ることができるようになるからだ。これを「コールアップ」と呼ぶが、当時の村上もこのチャンスをつかんだ。その日のことを村上はこう振り返っている。

「フレズノからサンフランシスコへ行き、そこからニューヨークへひとりで行きました。空港からマンハッタンのホテルまでバスで向かい、ホテルでチェックインしようとしたら、名前がなかった。20分くらい待たされたのかな。冷や汗が出ました(笑)」

 球団職員がフロントまでやって来て事なきを得たが、バタバタと9月1日にメジャーで初登板の機会を得る。

 対戦相手は1962年に誕生したばかりのニューヨーク・メッツ。相手の本拠地であるシェイ・スタジアムで、村上は8回裏に0対4とリードされた場面で登板。ヒット1本を許したものの2三振を奪い、無失点で「日本人メジャーリーガー第一号」としてデビューを果たした。

 それからはコンスタントに登板を重ね、9月29日にはヒューストン・コルト45s(現アストロズ)戦で同点の9回から登板、3回を1安打に抑えると、11回裏に味方打線が1点を挙げ、サヨナラ勝ち。これが村上のメジャー初勝利となった。

 このシーズン、村上は9試合で登板し、15イニングを投げているが、特筆すべきは奪三振が15個に対し、四球を1個しか与えていないこと。並々ならぬ制球力を持っていたことがうかがえる。

 このシーズンの成功を、村上はこう話してくれたことがある。

「コントロールは、よかったですね。それは日本で磨かれたものだったと思います。それと、当時は情報が少なかったから、相手がどんなすごいバッターか、ぜんぜん知らなかった(笑)。だから怖いもの知らず。当時のナショナル・リーグにはハンク・アーロンとか、ロベルト・クレメンテとかいたんですけど、スコアボードにも名前が出なくて、背番号だけだったから、わからなかった」

【2年目は1シーズンを通して活躍したが......】

 皮肉なことに、この成功が厄介な問題を引き起こす。ジャイアンツは、1965年も村上との契約を望んだが、南海が帰還させるように主張。保有権を巡って両球団は揉めることとなり、話し合いは平行線をたどった。

日米両機構のコミッショナーも解決に乗り出したが、「1965年はジャイアンツでプレーし、次シーズン以降は村上の自由意思に任せる」という条件でようやく決着がついた。

 村上は4月29日にようやく渡米、5月9日のロサンゼルス・ドジャース戦でメジャーのマウンドに復帰し、8回表、一死一・三塁の場面でリリーフに立った。いきなり四球を与え、満塁に。このピンチに対戦したのはのちにロッテ・オリオンズ(現・マリーンズ)の選手、監督として来日することになるジム・ラフィーバー。村上はカウント2-2から見逃しの三振を奪って、クローザーにマウンドを託した(ちなみに、この試合はドジャースのサンディ・コーファックス、ジャイアンツのゲイロード・ペリー、殿堂入りしたふたりの大投手の投げ合いだった)。

 村上はこのシーズン、45試合に登板し、74回と3分の1を投げ、4勝1敗、防御率3.77の成績を残した。奪三振は多く、投球回数以上の85個をマークしていることからも、十分に通用していたことがわかる。このままアメリカに残っていたら、息長くメジャーリーグで活躍できる可能性はあった。しかし、村上は南海に戻らざるを得なかった。

「そりゃ、アメリカに残りたかったですよ。人生、一度きりだもの。後悔はあります。

でも、南海に入団する時に、当時の鶴岡一人監督が『ウチに来ればアメリカに行かせてやる』と言ってくれたんです。東京六大学で投げるのが夢だったんですが、アメリカの西部劇が好きな私は、その言葉に乗った。だから、アメリカに行けたのは鶴岡さんのおかげ。恩返しをしなきゃいけないですから、南海に戻りました」

 1960年代の日本人の冒険。これだけユニークな経験をした若者は、ほかにはいなかっただろう。

【Profile】むらかみ・まさのり/1944年5月6日生まれ、山梨県出身。法政二高(神奈川)―南海。1962年9月に南海と支配下選手として契約。
●NPB所属歴(18年):南海(1963、66~74)―阪神(1975)―日本ハム(1976~82)
●NPB通算成績:103勝82敗30セーブ(566試合)/防御率3.64/投球回1642.1/奪三振758
●MLB所属歴(2年):サンフランシスコ・ジャイアンツ(1964~65)*ナショナル・リーグ
●MLB通算成績:5勝1敗9セーブ(54試合)/防御率3.43/投球回89.1/奪三振100

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